「高校卒業後は偏差値が高い大学を目指すのが、ふつう」
「就活は名の知れた都会の企業を目指すのが、ふつう」
「無謀な夢を追いかけるより堅実な会社員でいるのが、ふつう」
「大人になれば誰かに恋して愛するのが、ふつう」
「辛いことがあっても我慢するのが、ふつう」

これらは特定の誰かに言われたわけではない。それでも私は「みんなそう思っているはずだ」と信じて疑わなかった。そして、他人の目から見て「ふつう」を目指すこと、それが絶対的に揺らぐことのない私の幸せだと思っていた。

では、ふつうを目指してきた私は幸せになれたのか?
現実はそう簡単ではないらしい。
本当に存在するのかもわからない「ふつう」に縛り付けられながら自分の気持ちに嘘をつき続け、心に不調が訪れた結果、職と彼氏を失った。

「大学を卒業したら有名企業を目指して就活するのがふつう」だと思い就活を始めた。
本当は、小説やエッセイを書く作家になりたいという夢を抱いていたけれど、そこそこの大学まで進んだのに大企業を目指さないのはふつうじゃないと思い、夢を追おうなんて考えもしなかった。みんなのように就職するなら広告業界がいいなと思い、無事に希望する会社から内定を貰った。

せっかく「職ナシ彼氏ナシ」なんだから夢を追いかけることにした

それから働き始めて2年。私は適応障害になった。
厳しい業界だとか、私のメンタルが弱いすぎるとか、部署異動とか、新型コロナウイルスの感染拡大で予期せぬ事態が続いたとか、私の体調を崩すには十分すぎる要因が偶然にも重なった結果だ。

体調が回復する兆しがなく、仕事を辞めた。彼氏には精神的体調不良を理解されず、別れを決意した。一気に職と彼氏を失った24歳には、自由に使うことができる時間だけが残された。
そんな日々で真っ先に頭に浮かんだのは「物書きになる夢を追いかけたい」という想いだった。

小説やエッセイ、脚本など芸術的な文章を書き仕事にできるのは、人類のたった一握りの天才と呼ばれる人のみだろう。私のような「運動も勉強も容姿もすべてが平均点」な凡人は、思い描くこともおこがましい夢だと知っていた。
誰かにこの夢を語ることもなく、思い出さないように心の奥底に閉まって、就活をして企業に就職して、一時期はバリキャリOLになった。
でも私は今や「24歳、職ナシ彼氏ナシ」。どう考えても普通じゃない。ならば、もう「夢を追いかけるなんて普通じゃないよな…」という心配をする必要もない。

どこにどのぐらい存在するかもわからない不確かなものに捕らわれたくない

普通じゃなくなった私は大きなものを失った。しかしその代わりに、夢を追いかける覚悟と、夢を目指すことで感じる生きがいを手にすることができた。
OLの時の私なら「物書きになろう!」と覚悟を決めることはできなかっただろう。 “そこそこの企業の正社員”と“売れる見込みもなく不安定な物書き”を天秤にかけたら、普通に考えて前者を選ぶはず。
結果論ではあるが、体調を崩して良かったと思っている。
今まで私を拘束していた「ふつう」から解放され、ふつうであろうとしていた私よりも、今の私のほうが生きていると感じる。何よりも、自分のことを少しだけ好きになれた。

そもそも「ふつう」は存在しないのかもしれない。冷静に考えれば、全人類が満場一致で「○○は××だ!」と考えることはあり得ないだろう。
例えば「普通は大学卒業したら企業に就職するよね」と言う人がいたとする。その人に「誰がそう言うの?何人がそう言うの?それどのくらい信憑性が高い”ふつう“なの?」と聞いたら、ほとんどみんなこう言うはずだ。「いや……普通に考えたらそうじゃん……」。
つまり、誰も”ふつう“がどこにどのくらい存在するのか知らない。
私たちが口にする「ふつう」は不確かなものだ。そんなものに捕らわれるのは、私はごめんだと思った。

「ふつう」を手放したら「自分らしい自分」を手に入れることができた。