私は先日まで、幼稚園からの宿題に中々手をつけられずにいた。その宿題というのは息子に出されたものではなく、親である私に出されたもの。私はお恥ずかしいことに、提出物をギリギリになってから取り組む(時には取り組まない)性格が、齢29にして未だ治らないのである。どうしたものか。

ヤバいヤバいと思いつつ、やるべきことに中々着手できない

その宿題と言うのは、クリスマス会で子供へ渡すサプライズのプレゼント、今年のお題はリース作りだった。
幼稚園付近の100円ショップにママ友達が殺到することは目に見えていた。だから私は3駅先のオシャレ100均へ行って、造花や毛糸、小さなライトなどを、ルンルン気分でたくさん買いこんできた。
そう、ここまでの行動は、他のママ達と比較しても早い方だったと思う。私はいわゆる「形から入るタイプ」だ。

しかし材料を買って、そこから何もせず、3週間が経過。「え? クリスマス会もう次の金曜じゃん」と思ったギリギリの週末、旦那に息子達の寝かしつけを頼み、1人こっそり夜中のリビングで、所要時間3時間のリースを完成させたのだった。

とはいえ、私は工作も裁縫も、別に嫌いではないのである。むしろアイディアを形にするのは好きだし、細かい手作業も、恐らく得意と言ってもいい方だ。
にもかかわらず、ヤバいヤバいと思いつつも中々作業に着手できなかったのは、なぜなんだろう。

好きなことや得意なことですら、すぐに着手できないこの性格なのだから、嫌いなことや苦手なことに関してはもう、本当に中々、やる気スイッチが入らない。
幼少期から今に至るまで、お恥ずかしいエピソードならば腐るほどある……。

中学生の頃の冬休み、百人一首を覚えましょうという宿題が出た。
私は「こんなん覚える人なんかいないでしょ(笑)」という気持ちのまま新学期を迎えた。
すると課題テストが百人一首の穴埋めだった。結果点数は一桁だった(4点)。

大学生になってからも、ダブルスクールに通いつつなんとか資格を複数取得したものの課題の提出期限はいつもギリギリだったし、教習所に通い始めたものの運転免許証は取得できずに今に至っている……とても不思議ですよね(他人事)。

性格と特性の違いって? 発達障害について学ぶ機会は少ない

こうして自分の至らなさを回顧していくと「私がだらしないのは性格ではなくて特性なのだろうか」とも思えてくる。
性格と特性の境目って、素人には判別できない。実際に病院で何らかの診断を受けて、障がいの名前を抱えて暮らしている方もいるだろうし、それで人間関係に苦しんだり、薬を服用している方も大勢いると思う。

私の場合は、宿題をギリギリに終わらせるという行為は性格であって特性ではないと、自分では思っている。なぜならそれが日常生活を送るのが困難になる程には支障を与えてはいないと、自分の尺度ではそう感じるからだ。

しかし私は医者ではないから断言はできない。もしかして、完璧主義的な人から見たら「この人……グレーだな?」となるのかもしれない。

昨今、「発達障害」や「ADHD」などといった言葉が一人歩きしてはいないだろうか。「もしかして私もそう?」とか「あの人もそう?」とか。可能性を考えるハードルは下がってきている気がする。

私の周囲でも、障がいをカミングアウトされてその真偽も分からないままに相手との距離感を測りかねているという話を聞いたことがあるし、ギャグのような軽さで「私そういうとこあるから」と自分の至らなさを特性としてゴリ押ししようとしている人も見たことがある。

また、本人とは遠くはなれた場所で、赤の他人が医師でもないのに議論している様子も、今年はSNSなどで何度か見かけた。特に芸能人の不祥事や不幸があった時、元々は善意に基づく医療知識の発信だったものが、一部を切り取られて拡散され、結果的に炎上の火元となってしまう、そんな現象も起こっていた。

私の回りのママ友の中にも「うちの子もしかして……」とソワソワしながら様子を見ている人は何人かいるし、そのうえ相変わらず医療機関に掛かるハードルもなんだか高いと思われがちだし、「私、発達障害で薬飲んでて」「私、ADHDだと思うんだよね」と他人に言われたときどう接すれば良いのか、学べる機会はあまりないし……。

個人が発信するならば、医療情報ではなく自身の体験談を

医療分野の知識が広がることは、もちろんメリットもある。困り感を抱えている人が、本当にままならない状況に追い込まれる前にせめて現状維持、もしくは改善に持っていけるキッカケを掴めるのは良いことだ。
しかし同時に、それにともなって発生するデメリットも少しずつ見えてきた。

私は、例え自身に知識が多少あったとしても、前提として善意があるとしても、「この人は◯◯の可能性がある」と発信することにはリスクがあると感じる。

では、知識と善意があったとして、様々な人が抱えている困り感に本当に寄り添える情報を発信しようと思うならば、どうするか。
私が思うに、多くの人が本当に知りたい、見たいと思う情報は、個人的な体験談の中でのトライ&エラーや、手詰まりになった時の窓口の紹介ではないだろうか。
メディアがSNSの文章が、困っている人やその回りの人を救う、手軽な形でのキッカケとなれば、それは素敵だし、ネットという非対面の場だからこそ救える生活も、命もあるかもしれない。

誰しもが物理的、心理的にこもりがちになっている今、自分自身や家族と向き合う時間は増えているし、学校や職場でのモヤモヤは過剰に膨らみがちな傾向にある。

自分や他人に対して、不透明な性格や特性を垣間見たとき。こんな閉塞感の中であっても、まずはそれぞれが周囲の人との心地よい距離感を測りつつ、自分と大切な人の心身を守る為の行動を選択できますように。

そして、個人的な話。

私のだらしなさ、ルーズさは、現状やはり性格の範疇、だと思う。であるならば、そんな自分を認識しつつ、先回り先回りでリスクを回避できるように努めたいし、そんな私と一緒に笑ってくれる人達をもっと大切にしたい。
私はそんな、とても小さな範囲、手の届く距離の人の幸せを、まずは強く願うのであった。