「内定を辞退させていただきたく存じます」
何日も、何十時間も迷って書いたメール。
送信ボタンを押す指が震えていた。

コロナ禍での就活をなんとか乗り切り、周りの友達に遅れること数週間、やっと内定を手にした。
第一志望とは程遠い職種だったが、それなりに満足していた。
しかし、内定承諾書の提出締め切りが近づくにつれ、諦め切れない想いが自分の中で大きくなり始めた。そんな時、ふと中学生時代のことを思い出した。

「声優になりたいんだ」
昔、幼なじみが私だけに打ち明けてくれた将来の夢だった。
私たちは小さい頃からずっと一緒に育ってきたけれど、中学に入学し共通のアニメが好きだと知ってから一気に仲良くなった。
「すごいじゃん!絶対なれるよ!」
そういうと彼女は恥ずかしそうに「なれたらいいなあ」と笑った。

私は、自分の夢を言葉にできる彼女が純粋に羨ましかった。
本当は「私も声優になりたい!」と言いたかったのに、結局言い出すことは出来なかった。
彼女に便乗する形になるのが恥ずかしかったわけではなく、ただ何かを本気で追いかけることがとてつもなく怖かったのだ。

もし本気で志したのに、なんの結果も得られなかったら、きっと私は立ち直れない。
そう思うと冗談めかして口にすることさえも躊躇われた。
彼女は中学を卒業すると声優の専門学校に通った。

声優を目指した彼女が、晴れ晴れとした顔で言った一言

私は勉強が得意だったおかげで、県内でもそこそこ偏差値の高い高校に入学することができた。
私は部活動や勉強、季節ごとに行われる学校行事で忙しい日々を過ごし、彼女とはあまり合わなくなっていった。
大学受験を終えた頃、突然彼女から連絡があった。
「卒業公演があるんだけど、よかったら見にこない?」
私はすぐに行きたいと伝えた。

当日、私は少し緊張しながら東京行きの電車へ乗り、駅から少し離れた場所にある雑居ビルへ足を運んだ。
ほとんど客席の高さと変わらない手作り感満載の舞台。
ぎゅうぎゅうに並べられたパイプ椅子の客席。
私が想像していた舞台とは違っていた。
それでも幕が上がり、スポットライトの中に立つ彼女は私の知らない人だった。
今まで聞いたこともないような気迫あふれる声が、私の心に真っ直ぐ語りかけてきた。
感動して、少し涙が出た。
私は早く感想を言いたくて、幕が下りるとすぐに席を立った。

「もう、諦めるつもりなんだ」
劇が終わり、見送りで出てきてくれた彼女は額に汗を光らせてそう言った。
彼女の顔は晴れ晴れとしていて、美しかった。
私は何も言えなかった。

紛れもなく頑張った人からの「頑張って」が勇気をくれた

あれから4年、私は大学で文学を勉強し、彼女は社会人として働いている。
季節の変わり目ごとに会って、近況やら愚痴やらで盛り上がりながら一緒にご飯を食べる。

「声優になりたいんだ」
デザートを待つ間、一息に打ち明けた。すると彼女は複雑な表情をしてから、怜ならなれる気がする、と笑った。
そこからは声優学校時代の苦労話やちょっとした業界の裏話を教えてくれた。
高校生の頃はなんだか触れてはいけない気がして聞けなかった話だった。

「頑張って」

帰り際、彼女は改札の前でそう言って手を振った。
初めてその言葉が嬉しかった。今まで部活でも勉強でも、いつも嫌いだったその言葉が初めて私の心に勇気を与えてくれた。
それは紛れもなく頑張った人からの言葉だったから。

普通から外れることは不安だけど、自分に嘘をつきたくない

就活の傍、1年間のカリキュラムを組んでいる養成所に入所し、基礎から演技を学び始めた。
技術的なことはもちろん、感情と向き合うことも初めてだった。
人間の感情は喜怒哀楽だけじゃない。いろんな気持ちが入り混じって言葉にできない複雑な感情が心の中に溢れている。
それを声に託して言葉を紡ぐ。とても難しいことだけれど、同時にどれほど声が繊細で力強いものなのかを知った。
失敗ばかりの毎日で、辛くなると彼女の声を思い出す。
「頑張って」が私の中で反響する。

夢を語ることはやっぱり怖い。でもそれ以上に他人と同じ道を歩かないこと、普通から外れることがこんなに不安だなんて考えてもみなかった。彼女もあの時こんな気持ちだったのだろうか、と今になって思う。それでも初めて誇らしい気持ちを持てているのも事実だ。

私は今、自分に嘘をついていない。それだけで自分を少し肯定できる。

一年後、私は何にもなれないかもしれない。声優になれず、他の人に遅れてまた就活をすることになるかもしれない。
それでも私は、初めて手を伸ばした夢に本気で挑みたい。
私は声優になりたい。