広辞苑によると、普通とは「どこにでも見受けるようなものであること」であり、「普」という漢字は「太陽の日が人々に広く行き渡る様子」から成り立っているらしい。

「ふつーって結局いっちばん難しいんだよね」に全員が同調した

「あたしはふつーに、ふつーに幸せになりたいだけなんだけど、ふつーって結局いっちばん難しいんだよね」

3杯目のビールをグイっと飲み干した友人が、呂律の回らない舌でそう溢した一言に、私を除く全ての女の子達が、顔を真っ赤にしながら同調した。私は機械的に口角を上げて、頷く代わりに床に落ちていた枝豆のガラを拾った。

普通の幸せってなんだろう。好きな人と結婚して、子供ができて、それなりに生活に困らない程度のお金を稼ぐこと?こう尋ねた時、彼女達の内何人が自分の言葉でその答えを言葉にできたのだろうか。

普通の基準はそれぞれでも、何かを求める時に、人並程度を望む人が多くなってしまったのはどうしてだろう。それはきっと、それ以上を求めて失敗するのが怖くなってしまったからかもしれない。自分がそれ以上に値すると信じられなくなってしまったからかもしれない。

自分にだけ向き合う時間に初めて聞こえてくる声が一番大切なのに

そうして、どこにでも広く行き渡るはずの「普通」の幸せを得るために、私たちは普通以上の不安を抱えながら、普通以上の努力を重ね、それでも普通以下の結果しか得られなかったりする。

それでも「普通の幸せ」を願うはずの私たちはきっと、商店街のガラガラで1等の海外旅行が当たったら大喜びして友人に自慢するだろうし、知人が玉の輿に乗ったと聞くと、口では「おめでとう」と言いながら唇を噛むのだ。

静かな部屋で、目を瞑って心の一番奥底に耳を澄ましてみると、「普通に幸せになりたい」と答えが返ってくる人はいないのではないだろうか。

「子供の時からの夢をいつか実現させたい」
「片思いの人を振り向かせたい」
「1億円貯めたい」

周りの雑音をなくして、一番大切な自分にだけ向き合う時間を作ってみて初めて聞こえてくる声というものがある。どれだけ壮大でも、少しくらい下品だって良い。私しか知らない、私の一番柔らかい場所が、何を望んでいたっていいじゃないか。

そしてそれは一番大切な声なのに、自分に真っすぐ向き合って耳を澄ませないと聴こえてこない。

人生のゴールを、「普通」に設定してしまうなんて余りに勿体ない

時が戻ってあの居酒屋に戻れたならば、小さく深呼吸をしてから私は言いたい。

「私は飛びっっきり幸せになりたいよ」、と。

「あ….そうなんだ」と場を白けさせてしまうだろうか。それとも、「何言ってんの(笑)」と笑ってスルーされてしまうのだろうか。

それでも良い。たった1回しかない人生のゴールを、「普通」に設定してしまうなんて余りに勿体ない。最高の幸せを目指してもがき、あがく自分が一番カッコイイし、その結果、23歳の時に思い描いていた「最高」を得られなかったとしても、私はきっと自分の人生に心から満足できると思うのだ。少なくとも、そう信じて過ごしたい。

普通になる事すら難しい世の中で、「普通」を超えたいと祈る人がもっと増えた時、この世界はもう少しだけ優しく、温かい場所になるのだと思う。