私は私の普通を生きているよ。
いつだって、私のその時点での普通は、過去の私の普通じゃあない。

普通のお母さん像を追いかけても、100%同じ母親になんてなれない

ほら、今だって、2歳ごろまで自然に卒乳を待てばいいという説に頷き授乳して寝かしつけている私が、夜中に子供に起こされて授乳する頃には「もう歯が生えているし、いいかげん卒乳せよ!」と怒っている。人間なんて、気分で変わるさ。

赤ちゃんの成長を、日々間近で母として目の当たりにする度に思い知らされるんだ。ほにゃほにゃで泣いていた赤ちゃんが、次第に骨がしっかりして、首がすわって、歩くようになる。毎日できることが増えて、しなくなったことが増えて、人間として身体も声も行動も変化するのに、普通なんて言葉に当てはまらないよ。
初めての育児で、毎日いっぱいいっぱいになり、ストレスの限界で産後鬱のような気持ちになった時間を振り返ると、気にしすぎだったと感じる。育児書や記事、幼児教室などを通して普通のお母さん像を追いかけても、私は母である前に1人の人間であるから、100%同じ母親になんてなれない。そもそも普通の概念がブレブレじゃないか。私という母親が、私の子供の普通のお母さん像に直結する。でも、私の親の普通も私の普通も違う。だからきっとみんなの普通なんて誤差どころの話じゃない。

「ふつう」の解像度は、世界と人類の歴史からみたらミジンコレベル

「ふつう」は日常で使う便利なフレーズで、ネットの辞書で「普通」を引いてみると、『特に変わっていないこと。ごくありふれたものであること。それがあたりまえであること。また、そのさま。』と出てきた。『称賛するほどではないが期待以上の結果だったという意味合いで、肯定的な表現と組み合わせて2000年代から用いられるようになった。』ということは、まだ歴史の浅い言葉である(出典:https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E6%99%AE%E9%80%9A/

確かに、おおよその値はあると思う。しかし、個人差に月齢差、男女差(ホルモンなど)、国や文化、育つ環境の違い、アレルギーや暮らし方で無量大数に増えた人間のパターンの統計から、多数の方を「ふつう」という言葉で雑にまとめて話しやすくしているだけで、普通なんてものは無いんじゃないかな。第一、その場の人間たちの知りうる「ふつう」の解像度なんて、世界と人類の歴史からみたらミジンコレベルだろうと私は思う。

不利益が生じたり、生きづらくなりそうな雰囲気を内包する「ふつう」

「ふつう」って「不痛」なのかも。
多数決の、正義だと思われる方の意見に混じって、自分という存在を溶かして、個として孤立することで生じる軋轢の痛みを体験しないように、わざと「ふつう」らしいほうを選択している時だってあるさ。

安心や保身のために使う秘密兵器みたいな普通が、誰かを傷つける結果を生んでも、傷つけた方は気づきもしない世の中を、数十年も生きて感じた便利な言葉「ふつう」の側面。それぞれが所属している社会で生きる為に使う普通の蓄積は、その社会での普通を練り上げる。傾倒しないと自分に不利益が生じたり、生きづらくなりそうな雰囲気を「ふつう」という言葉は内包している気がするよ。
だからこそ、私は私の「ふつう」を磨いていくつもりだし、子供にも普通とはなんぞやと考える視点を持てるようになって欲しいと願っている。