大学受験に失敗し、浪人することに決まった年の春。予備校で担当の若い女性のチューターと面談することになり、自分の面談書類がチラッと見えた。
紙の左下の空いた空間に、ボールペンで「ちょっと不思議ちゃん?」と書かれていた。

「え、悪口だ」

瞬時にそう思った。今改めて考えると「不思議ちゃん」という言葉をどう捉えるかは人それぞれなのかもしれないと冷静になれるが、当時は不快でしかなかった。
私にとっては「不思議ちゃん」というのは「社会的に逸脱していて、頭の悪い振る舞いをあえてする人」というレッテルを貼り付けた悪意の言葉の塊に感じる。
メディアを通して感じ取られる「不思議ちゃん」には、キャラクター化されわざとらしく演じるものが多く、何か人とは違う行動を取った際、譲歩的な意味合いとして「不思議ちゃんだから~」と使われているように感じたからだ。

中には、「普通ではない特別なもの」と評価されたことに喜ぶ人や「不思議ちゃん」をアイデンティティに感じる人もいるかもしれないが、少なくとも私には褒め言葉には感じない。当時は、受験勉強どころではなくひどく落ち込んだ。
だが結局その言葉の意味の真意を確認することは怖くてできず、もやもやは晴れないまま予備校を卒業してしまった。

「変わり者」とラベリングされることに慣れてきたけれど

中高女子校で育った。よく女子校は「変人の集まりだ」とか、「女を捨てて、おっさん化している」だとか言われていることを耳にする。
大学に入学してからも、初対面の人から「女子校出身っぽい」とまんまと私の経歴を当てられ、いい感じにみんなの望む「変人像」に私は近づいていっているみたいだ。
こうして「変わり者」とラベリングされることにだんだん慣れていった。
でも、心のもやもやは晴れるどころか、どんどん違和感は増すばかりで、その場を上手く切り抜けるために自分の中で自虐的に「変わり者」を利用していった。頑張って「変わり者」として評価されることが楽しいと感じるように自分を騙していたのかもしれない。

でも最近、フェミニズムや性の多様性に関する色々な取り組みや記事を見てきて、だんだんもやもやを取り除く答えが見つかりつつある。
それは、私にとって「ふつう」とか「変わり者」と言われることよりも、そのようなレッテルを貼りわける作業自体に嫌悪感を感じていたということだ。

違う趣味を持つ者同士、対等な立場で行われる異文化交流

女子校は、世間が想像する「変わり者」しかいなかった。だけど変わり者しかいないことが、私たちにとっての「ふつう」だった。
お尻が隠れるくらいまでの髪の長い子、同人誌を自分のロッカーにいっぱいに詰めて貸出する子、戦争オタクでやたらアンティークの軍事品に詳しい子、ビジュアル系バンドのおっかけに勤しむ子…。みんな一緒に仲良くなんてことはなかったけど、お互いに小さな島を作っていて、たまに交流する。
違う趣味を共有しあったり、貸し借りしあう。小さな島同士が貿易をするみたいに。
両者は、対等な立場で「変わり者」も「普通」も存在しない。
お互いを尊重し、個性として認め合う。異文化交流だ。
彼女たちは、「髪を伸ばすのが好きな子」「軍事系のアンティークが好きな子」「同人誌を集めるのが好きな子」「ビジュアル系バンドの大ファン」であって、「変わり者」ではない。

「ふつう」でも変わり者でもなく、私が何者であるかは私が決める

「ふつう」ってなんだ。
私にとっての「ふつう」は世間の「ふつう」ではないらしい。
だからこそ、他の人よりいっそう「ふつう」を意識している。気にしすぎてきた。
でも、「ふつう」も「変わり者」もそんなもの本当は存在しないのではないか。
たまたま私は、何かしらの決断の岐路に立った時、マイノリティばかり選択してきたのかもしれない。
ちょっと喋り方が人とは違うのかもしれない。
嬉しいとき、スキップして帰る姿を誰かに見られても気にしない性格だからなのかもしれない。

でも、私は「変わり者」でも「ふつう」でもない。私が何者であるかは私が決める。私は、「わたし」だ。