これまで、いくつかのバイト先を転々としてきた。
現在勤めているのは、放送局と喫茶店。前者は18歳から続けているバイト、後者は新型コロナウイルスの影響で前者の仕事がなくなってしまった時期に始めたものだ。急遽決めたものの、かなり気に入っている。
当然、お客様とは最低限の関わりしかないし、スタッフ同士の会話もたまに、それもライトな話題でストレスがない。つまり、“ひととの距離が保証された場所”なのである。
面白味はあってもどこか息苦しい放送局に勤続し、他のバイトを経験しては肌に合わず辞めてきた私にとっては有難い所だ。
そんな私が、喫茶店で働いてみて気がついた。私は、放送局では“人間をやっていたから苦しかったのだ”と。
新しいバイト先で気づいた。納得のいく「私の答え」
どちらのバイト先でも、私は“ハキハキとした明るいスタッフ”だ。キャラは変わらないのに、気持ちに差が出るのはどうしてだろうという自問に、やっと納得のいく答えが出た。
まずは、この気づきに結びついている学生時代の記憶について記したい。
私は、幼少から度々いじめを受けてきた。その理由の多くは「咲月ちゃんならいいでしょ」「咲月ちゃんって、なんかムカつく」だった。
私はあまり腹を立てないし、ひとを恨みもしない、ヒツジのような子どもだった。ゆえに標的にされたのだろうとも、それでも折れずに学校へ通っていた私の姿勢がかえってエスカレートさせたのだろうとも、今なら合点がいく。
もし当時私が “カースト上位の子”か“取り巻きの子”という役につけたら、いじめられなかったのかもしれないし、“いじめられっ子”としてしおらしくしていれば、それ以上なにかされることもなかったかもしれない。
私がいじめられたのは、“私が私として存在していたから”で、いじめられて辛かったのは“私”が傷つけられていたからなのだ。
このことの延長線上に、バイト先での息苦しさもあった。
社会で徹底して「役」を演じられれば、傷つくことは減ると思う
喫茶店では、“店員”として扱われ、私もそれを“演じて”いる。笑顔も高い声も、お客様にクレームを言われても、店員を演じているのだと思えば苦ではない。
しかし、放送局では“咲月”として扱われ、私自身も“私は明るくハキハキしなくちゃ”という意識のもと働いている。つまり、そういうスタッフを演じるのではなく、私自身に押し付けているのだ。これが人間を“やっていた”ということの意味であり、苦しさの原因でもある。
そして、私が長いことこれに囚われてきた原因は、教育やメディアが揃って“個性を大切に”だの“自分らしく生きろ”だのと、バカのひとつ覚えのようにほざいているからだ。
(大小関わらず)社会において、各々が役を徹底して演じられれば、そのひと自身が傷つくことは減ると思うのに、パーソナリティーを秘めておくことを“負け”とか“諦め”などと、学生時代では教育が、大人になってからはメディアが煽るので、真面目なひとから死んでゆく。
社会が個人にそのひと自身の公開を求めること、それができることを是とするのは、とても乱暴な理想論ではないのか。社会をつくっているのは個人なのに、教育とメディアのあおりに洗脳された社会(個人の集合体)による個人への殺戮が止まらないということもまた、悲劇だ。
無理して「自分」を公開しなくていい。仕舞っておくという選択肢を
「あなたがしあわせでいられるなら、無理してあなたを社会に公開しなくても良いのだ」と、どうしてだれも言わないのだろう。そもそも宝物とは、大切に仕舞っておくものではなかったのか。
“あなたの公開”は、あくまで選択肢のひとつとしてあらねば、そしてその隣に“あなたを仕舞っておく”という選択肢も置いておかねばならないと、私は思う。
私は喫茶店では、店員。
それこそが、私が私を大切にするということ。