音の少なくなった深夜の大通り。
日中であれば当たり前の景色だが、見える限りの信号が一定の間隔で赤に変わっていく様子を眺めながら、冷たくなった鼻をすすった。
独りぼっちな寂しさが含まれる非日常に、なぜか吸い込まれて
私はこの「少し寂しい非日常」にとんでもない魅力を感じてしまうのだ。
焼けるような太陽の下。真夏の昼間にダラダラと歩いていると、ビルとビルの隙間に影を見つける。そこだけ世界とは全く逆の場所のように見えた。人が入れるような隙間ではないのだけれど、なぜかそこに吸い込まれていくような気持ちになる。けれど、私の見たその影には「誰も気づかず。誰も入れない」。そういう独りぼっちな寂しさが含まれている。だからといって、その場に立ち止まるわけでもなく、私はただ一瞥した後、またダラダラ歩き続けてしまうのだ。気づかれた途端、無かったことにされたような、そんな寂しさも、私のおかげで誕生してしまったのである。
「とんだロマンチストだな」と、笑い者にされてしまいそうだけど
またある時は、学生時代の下校途中。
自転車を漕ぎ出して少しした時、突然雨が降ってきた。毎朝天気予報をチェックしていたなら別だけど、私の朝にそんな余裕もなく、当然雨具なんて持ち合わせているはずもない。少しずつ、けれど確実に地面を濡らしていく水滴に、なぜか心が躍っている自分がいるのだ。見飽きたであろう通学路も雨に反射してキラキラと…。しかし、やっぱりなぜか少しの寂しさを感じるのは、本来あるはずの茜色の夕日をすっかり隠して、段々と暗く重くなっていく空のせいだろう。
「おいおい、とんだロマンチストだな」
と笑い者にされてしまいそうなくらい、私は日常に突如現れる「非日常」をこよなく愛し、密かにその時が訪れるのを待っている。こんなことはもちろん誰かに話したことなんてないのだけれど、考えているだけで今日が"ただの日常"ではなくなるのだから、感じ方一つなのだと、少し肩の荷が下りるのも確かなのだ。
「感性を研ぎ澄ませて生きよう!」だなんて、思っていない
こんなことを言っていても「感性を研ぎ澄ませて生きよう!」だなんて思っていなくって、私の感じた事を感じたままに否定せず、そして誰に言うでもなく、そこに心酔してみることが、何より自分の感性に触れているということなのではないかと思う。
そしてここまで読んでくださった皆様の中に、私の感性に触れてみたいと思った方がいたのなら、貴方もまた尖った感性の持ち主なのかも…ということですかね。