私が愛する存在はすこぶる気まぐれ。言葉はほぼ通じない。おなかすいた、遊びたい、寝たいという欲望に忠実で、お風呂と爪切りをとても嫌がる。そしてめちゃくちゃ噛んでくる。嫁入り前なのに勘弁してほしい。でも可愛くて仕方ない。愛しくて仕方ない。
我が家でお姫様のような待遇を受けているこの存在を、人は「猫」と呼ぶ。

可愛い!撮りたい!と思った瞬間は大抵撮らせてもらえない

うちの猫の朝は驚くほど早い。早い時には休日だろうと関係なく5時前に目を覚まし「あぉん」とちょっと遠慮気味に鳴く。「意外と慎ましく鳴くじゃないか……お腹空いたんだろうな、でももうひと眠り……」なんてまどろんでいると「いい加減起きろや」と言わんばかりに小鼻を噛んでくる。前言撤回、少しは慎ましさを覚えてくれ。まあ空腹は我慢できないよね、私が悪かったなと心を入れ替えて布団から這い出しご飯を準備する。朝っぱらとは思えない勢いでご飯を食べる猫は満足そうで、見ているだけで和む。「カリッ、カリリッ……」という咀嚼音がとても心地よくて、思わずスマホで録音。「猫の咀嚼音」と名付けたその録音データは、人生しんどいわと憂鬱なときに聴いている。自律神経の乱れを正してくれそうなASMRだ。

ご飯を食べたら次は「あたしと遊びなさい」と鳴く。猫じゃらしを弱った鳥のように動かせば、猫は目をまんまる真っ黒にしてお尻をフリフリ。その姿が可愛すぎて動画に収めたいのだが、スマホを向けると何事もなかったように平常時の猫に戻ってしまう。猫は、写真や動画が基本NGだ。可愛い!撮りたい!と思った瞬間は大抵撮らせてもらえない。大物芸能人を追う週刊誌カメラマンの気持ちで一瞬を逃さない気力が必要だ。

いつの間にか心の支えになり、人生に欠かせない存在になっていた

遊んだ後にはお腹も満たされているし眠くなるらしい。人間の子どもと何ら変わりない。ちなみに猫の知能は人間の3歳児に相当すると聞いたことがある。「ご飯」「遊ぶ」「ねんね」「可愛い」だけ反応を示すのも頷ける。私が在宅勤務だった頃、座椅子に座ってPCに向かっていると隣にちょこんと座って視線を送ってくる。これは「あたし眠い。飼い主よ、脚の間で寝かせろ」という合図だ。私は膝を伸ばして足元に肌触りの良い毛布を掛ける。このときのポイントは、両足の間隔を猫の胴体より少し狭めに開けること。すると秒で猫がその隙間にやってきて、ボフンと横たわる。若干みっちりとしていて狭そうに見えるが、挟まっている感覚がお好みのようだ。私も脚の間にモフモフを感じて多幸感に包まれる。

猫は安眠の一方で、私は可愛い猫を脚の間に挟みながらPC越しの取引先に怒られるのが日課。不思議なもので、普段怒られると「ああ、私はなんてダメなんだ」と落ち込むのに、猫を脚の間で養っている間は「そんなに貴方が怒っている相手は、今足元でめっちゃ可愛い猫を寝かせていますよ?」と謎の余裕が生まれる。この時、いつの間にか猫が心の支えになり私の人生に欠かせない存在となっていたのだなと実感する。

我が家に猫がやってきて3年。穏やかに時間を共有してくれている

しみじみと愛しさを感じていると、目を覚ました猫が私の足を思い切り噛んできたこともあったが、そもそも怒られるようなミスをするなよと渇を入れてくれたのかもしれない。実際のところは、ただ寝ぼけていただけのようで即二度寝し始めた。

我が家に猫がやってきて3年経つが、2020年は特に家で一緒に過ごす時間が長かった。今もこうして私がエッセイを書いている間、仰向けになってお腹を見せながらスヤスヤと、たまにビコッと動いて夢を見ながら、穏やかに時間を共有してくれている。たぶん明日も明後日も早朝に起こされる。きっと1年後も可愛い瞬間に遭遇してはシャッターチャンスを逃す。そしてこれから先も脚の間で眠ってくれる。
そんな他人から見たら取るに足らない猫と私の日常は、私には欠かせない愛そのものだ。