私のいる少し先で、女子高生が転んでしまった。「ああ、痛そうだ」と反射的に私まで顔をしかめてしまう。近くにいた人に声をかけてもらっているので、私は「お大事に」と心の中で思うだけで終わりになるはずだった。

プロである私は、彼女の流れと可愛さに初々しさを感じてくらくらした

しかし、そうはならなかった。なかなか立ち上がらない女子高生にひっかかりを感じたからだ。「どうした、どうした」と顔に視線を移して、すべてがわかった。

放心していたのだ、彼女は。きっと今どうなっていて、これからどうすべきかが分かっていないのだろう。きょとんとした顔は、泣き出す1秒前の赤ちゃんのようだった。「そっか、転び慣れていないのか、そうだよね」と1人納得したプロである私は、彼女のこの一連の流れとその表情の可愛さに初々しさを感じてくらくらした。

私はプロだ。
転んでから素早く立ち上がることと、痛みを我慢するプロだ。
精神的な意味ではない、肉体的な意味でだ。
小さい頃非常によく転ぶ子だった私は、なんとびっくりしたことに大人になった今もよく転ぶ。この二十数年間で私は、私なりの転んだ時の対処法を完璧に構築した。

周りへの配慮を最重視する。すぐに立ち上がり、痛さを見せないように

私が一番に気を張っているのは、周りへの配慮だ。多くの人は、私が転んだ姿を見たらびっくりするだろう。声をかけようか逡巡したり、実際に声をかけてくれたりもするだろう。だが、頻繁に転ぶ身としては、そんな気を見知らぬ人に使わせてしまうことが恐縮の至りなのだ。なんとしても避けたいのだ。そのため、立ち上がりの早さはとても意識している。

転んで倒れていく時はスローモーションだ。その刹那の時間の中で私は、転ぶことを受け入れ、「立ち上がるぞ立ち上がるぞ」と思っている。そうして転んだ私が立ち上がる姿を見た周りの人は、あまりの切り替えの早さにきっと転ぶことも予定のうちだったのだなと思ってくれるはずだ。いや、そう思ってほしいのだ。

だが、素早く立ち上がれるだけでは完ぺきとは言えない。いや、何の意味もなさないと言わなければならない。なぜなら、せっかく早く立ち上がっても痛がっていたら周りは痛いのだなと思って気を遣ってくれようとするからだ。つまり、何事もないように歩き出し、転びの現場から一刻も早く姿を消し去ることが求められている。
正直言って転んだら痛い。それは事実だ。この身長と体重が地面に倒れているのだから無傷ではいられない。

だが、幸いなことに私は長年やっていたスポーツで培った「気合いがあればなんとかなる」「走っていれば痛いのは治る」といった精神論を発揮することができる。底のほうから引っ張り出したそれらを使って、自らを奮い立たせている。「歩けないということはないだろう?」と。随分、スパルタな顧問が私の中に眠っているもんだ。
プラスして、経験値からくる自信もある。数々の怪我をしてきたが、大きいものは片手で収まるくらいだ。たぶんそうだったと思う。つまり何が言いたいかというと、自分の治癒力を信じればいいということだ。過剰なくらいに私は私の治癒力を信じている。

特技欄に、この転びのスキルを書いてよいなら、書いてしまいたい

そういうわけで私はプロだ。自信を持っている。
だが、悩むことがある。それは、このスキルを特技として良いのかということだ。私は特技欄への記載を求められると、書くことがなくていつも困ってしまう。だから、この転びのスキルを書いてよいなら、書いてしまいたいのだ。そうして早いところ特技欄を埋めてしまいたいのだ。
特技を広辞苑で引くと「特別に自信のある技能、他の人にはまねの出来ない技能」とある。非常にぴったりだ。
ただ、この特技を読んだ人はどう思うだろうか、私に対してどんなイメージを抱くだろうかと思うと、求められている答えではないのかもしれないと思う。
特技の定義について考え、特技欄への記載を求める人の気持ちを考える私がたどり着く先はいつも決まっている。
「特技についての定義は広辞苑でもっとがちがちに決めたほうがよいのではないか!」
でも、記載が変わらないということは大多数の人は困っていないのだろう。
私はこの先も、転ぶ人を見る度に私が転ぶ度に「これは特技と言っていいのか」ということを考え続けるのだろう。