片思いは、恋愛と呼ぶよりも夢想に近い。私は私の空想の世界に住む、彼の姿形を象ったバーチャルの幻Aに、恋愛のごっこ遊びをしていたのかもしれない。

生まれてこの方二十七年間、好きな人が出来なかった。女としての性能を否定されたような後ろめたさに、いつも足を引っ張られているのを感じていた。
恋活とか婚活とかいうものに手を出してみたこともあった。あの市場じゃ二十五前後というだけでそれなりに需要はあって、良くしてくれる人もいたけれど、また会いたいと思える人には会えないままフェードアウトしてばかりだった。
そんなのだから、自分には恋という機能が搭載されていないのだと思い、そういう娯楽を全て諦めた頃、少し楽になった。

けれども、二十七になったばかりの冬に移った職場で、出会った上司に恋をした。
正直なところ、ひと目見たときから好きになる予感はあったんだろう。でもあまり深く関わる機会がなく、極めてドライで親切じゃない、完全にビジネスとして割り切られた彼の対応はいつも冷たく映り、最初のうちは嫌いですらあった。

ある残業のさなか、薫風が吹くように初めての恋をした

ある日、残業のさなか、仕事のことで話し込んだ彼があまりに生き生きと熱弁している姿を見て興味を持ち、その後にはじめて見るくしゃっとした笑顔とまなじりに刻まれた皺を見て、薫風が吹くように好きだと自覚した。
誰かを見ているだけで胸が詰まるように痛むのも、ごはんが喉を通らなくなるのも、夜どきどきして眠れなくなるのも初めてで、本当に身体症状が辛くて、「恋 心臓 痛い いつまで」で検索をかけたことまであった。

私なんかに好かれたら迷惑だろうと思い必死に感情を押し殺し、せめて嫌われないようにしよう、迷惑をかけないようにしようと仕事に精を出し、休みの日も仕事関連の本を読み耽り、ずっと先延ばしにしていたダイエットにも真剣に取り組んで、私は自分史上もっともマシだと思える私になった。
そしたら少し自信がついて、こまめに話しかけられるようになり、すると彼も徐々に徐々に打ち解けはじめてきたのがわかった。

手放してしまうには、一方的だとしてもすべてが綺麗に光りすぎて

最初のうちはそれだけでよかったはずなのに、幸せだったのに、その状態が一年近くも続くとなると、浮かんでは膨れ上がる欲が、年齢に対する焦燥が、他の女性に対する嫉妬が渦巻いて、どんどんどんどん欲張りになっていく自分に気がついた。
彼に関して、彼の介在していないところで苦しむようになったのだ。

くだらない雑談が小一時間続いたとき、ご飯に誘ったら来てくれたとき、自分の人生の昏いところを打ち明けてくれたとき、同じ本を好きだとわかったとき、あなたが勧めてくれた本に感動できたとき、勉強に励んだおかげであなたの知識についていけるだけの自分になれたと気付いたとき、あなたがありがとうって笑ってくれたとき、ちょっとしたことでからかってくれたとき、信頼してますって言われたとき、業務を任せてくれたとき、本当はどれだけうれしかったか想像がつきますか。
それら全部容易く手放してしまうには、たとえ一方的だとしてもすべてが綺麗に光りすぎている。私にとっては、絶対に手に入ることはないと思っていた経験だった。そばにいると、いっそ打ち明けてしまいたくなる衝動に駆られた。

でも、それと同じだけ思い返す。
ああ行く行くって頷いてくれて期待したお茶の約束をあっさり反故にされたとき、話しかけて冷たい相槌しか返らなかったとき、どれだけ盛り上がっても私のパーソナルなことには全く踏み込んでこないことに気づいたとき、帰り道でばったり出くわしても気づかないふりをされたとき、私の好きなものにはちっとも興味を示さないんだなって思ったとき、私といるときよりよっぽど楽しそうな笑顔で他の人と話しているのを見たとき、とてつもなく虚しかったこと。虚しいと思う自分のエゴに、辟易としたこと。

旬を逃したときめきはどこからともなく腐敗していく

彼に結婚願望は愚か恋愛願望もないことは知っている。さまざまな事情が相まって、人に対して消極的で無関心なこともわかっている。不毛なことは始まる前から理解できていたはずだった。
でも、そういうところが自分と似ている気がして、彼なら誰かにわかってほしかったところをわかり合ってくれるような気がして、余計に救いを求めたし、自分も彼の痛みに触れることができるんじゃないかって淡い驕りがあった。
憎からず彼も私を想ってくれてるんじゃないか、自信がないから諦めているから表に出せないだけなんじゃないか、もう少し時間をかけて信頼して貰えれば何か変わるんじゃないか、って。

だって二十七年生きてきて、はじめて吹いた薫風だったのだ。
運命だと思いたかった。
その手にさわりたかった。

片思いにも旬はある。
旬を逃したときめきは、どこからともなく腐敗していくし、漏れ出した不可視の毒は少しずつ少しずつ彼に向ける空気を濁らせていく。
言葉にしない期待は時として棘になり態度に滲んで、何の落ち度もない彼を攻撃する。
そして、それでさえ大した影響力もないことを思い知り、その空虚さに傷つく。
繰り返し。

振り向いてもらえなかったのは、私が無価値だからじゃない。彼の需要を勝ち取れなかったことは、私の品位を貶めることにはならない。ただ私が勝手に好きになっただけ。彼が私を好きにならなかっただけ。
そうはわかっていても、たとえ世界にとって無価値でも、彼にだけは価値のある人間になりたかったと願う愚かな感情が自分にもあったことに、驚いた。

この片思いは閉じることにしたから、これは私の供養のつもり

この片思いを閉じようと思ったのは、自分にとっても彼にとってももうこれが有益に作用することはない感情なのだと思い知ったから。
せめて職場が違えば打ち明けられたかも知れないけど、身近にいる人間にこんなことを言われたらきっと苦しいと思うから、多分私は彼には言えない。だからこれは供養のつもり。

不毛な一年間だったけど、無駄な時間だったとは思わない。
恋の力は偉大だった。私に活力をくれて、世界の彩度を変えた。何度やり直してもこの結末に辿り着くのだろうけれど、彼を好きになる前の自分よりも、彼を好きになった今の私の方が、私はほんの少しだけ好きでいられるような気がする。
かさぶたを剥がしてしまわぬようにそっと絆創膏を貼って、次に顔を合わすときには、自然に同僚としての笑顔を浮かべられるだろうか。
これが最後の情緒不安定だ。ごめんなさい。ありがとう。これは、私の供養です。

恋愛と呼ぶよりも夢想に近いけれど、全部ちゃんと私は好きだった

片思いは、恋愛と呼ぶよりも夢想に近い。私は私の空想の世界に住む、彼の姿形を象ったバーチャルの幻Aに、恋愛のごっこ遊びをしていたのかもしれない。
それでも、私は、現実の彼のまなじりに恋をしたのだ。

眼鏡を外したら思いの外大きくてぱっちりとした二重の目も、長いまつ毛も、いつも少し跳ねた髪の毛も、マスクを外すと途端に幼く見えるあどけない口許も、華奢な猫背も、ところどころ色素が抜けて地図みたいに複雑に見える手も、打ち明けてくれた過去も、悩み事をするときの癖も、落ち込みやすいところも、忘れっぽいところも、ゴツい腕時計をはめた手首も、息の音も、笑い方も、嬉しいとき瞳を見開く癖も、ちゃんと好きだった。
未来に連れて行きはしない痛みだけど、ちゃんと、私は好きだった。