人は生まれた順番で性格が決まるというのは本当だろうか。
いや、検索するとすぐ出てくるから本当なのだろう。

ほかの人には見えていない、私だけの妄想の世界があるらしい

私にはきょうだいがいない。つまり一人っ子である。
マイペースで、平和主義で、妄想癖がある。
所謂テンプレ通りの一人っ子街道を29年も突っ走ってきて、
妄想のレベルも上がってきている。
そんなレベルがあるのかは不明だが。

しかしどうやら私が見ている世界は、ほかの人には見えていないらしい。
例えば、橋を渡るとき。
私の頭の中では、橋が後ろから崩れていき、逃げなきゃ川に落ちてしまうというゲームが繰り広げられていて、そのリアルすぎる光景の恐怖で少し足早になる。

例えば、車で道路を走っているとき。
助手席にいたらば前の車のナンバーを足していくゲームはやったことがある人も多いと思うが、私はあまりした記憶がない。算数が苦手なだけではない。
私がしていたのは、白線や黄色い線を引いている人になりきり、線を引く動作を足のリズムで表すというものである。実線は踏み続ける・点線は足を上げ下げする・黄色は指でボタンを押して白線/黄色の切り替えをしてから踏む、といった具合に。
左右の手足を使う点ではドラム演奏と似ているかもしれない。

これらは大人になった今でも鮮明に覚えていて、やれと言われればすぐにやることができる。

私が見ている世界は、心をもったものたちであふれている

ほかにも他人に話したら驚かれたことがある。

それは、見えた景色すべてに心がある、という考えである。
猫や犬などの動物たちはもちろん、木や花などの植物や電柱、信号機や風車などにもあると思っている。
植物は動物たちと同じようなイメージで、隣り合った花たちが会話を楽しんでいたり、時には愚痴を言い合ったりしているように見える。電柱や信号機、風車はそれを建てることに関わったたくさんの人間の気持ちと建てられて新しく生まれた物体自身の気持ちのイメージである。日が落ちると彼らは日中より輝きを増し、夜を楽しんでいるように見え、その輝きはまるで空の月や星とどちらが綺麗か競っているようだ。

文字にしてしまうと危ない奴感が否めないが、私が見ている世界には心をもったものたちであふれている。

これらの妄想たちは、一人っ子同士なら分かり合えるのだろうか

そもそもなぜこんな風に考えるようになったのかというと、物体には気持ちがないのだろうかという疑問からいろいろと想像しているうちに“聞こえる”ようになった。そしてこれはほかの人にも“見えて”いるものだと思っていた。だから、恋人に話したときは驚かれた。
そんなことを思ったことはないと言われ、私も驚いた。

これらの妄想たちが一人っ子という生まれ順の性格なのだとしたら、一人っ子同士なら分かり合えるのだろうか。なぜか私の周りには一人っ子がおらず、確認できないのが残念である。

私の頭の中に広がるこの景色が、いつかうまく文章化できたら、いつか絵として表現できたなら、そう考えると夢が広がる。
もしかしたら想像力の豊かさは、一人っ子の夢を広げたいという神様からのプレゼントかもしれない。
・・・神様がいるのかは不明だが。