“優等生は損をする”と、私は思っている。
同じ善いことをしても、優等生と非優等生では、超えるハードルの高さに差があると思われている。
そのため、非優等生は「素晴らしい。よく頑張った。」と評価されるが、優等生は「できて当たり前」で済まされてしまう。
何もせず、“優等生”のレベルを保っているわけではないのだが、そのフィルターはどうにも分厚いらしく、私は今までに幾度となく悩んできた。
勉強も趣味もコツコツ努力 全ては順風満帆!でも
「優秀だからどこに行ってもやっていけるね。」
「○○と違って、あなたは頼りになるわ。」
「うちにお嫁に来てほしいくらい。」
二十数年の人生のうちに、似たような言葉をどれだけかけられただろう。
幼い頃から、私は年の離れた兄弟の背中を見ては学び、常に足元の安全を確認しながら生きてきた。自分は失敗しないように、周りから褒めてもらえるように。人とのかかわり方や勉強、人生設計、キャラクター……すべてに用意周到であった私は、まもなく“優等生”の称号を得た。
学校のテストでは、ほとんど一番を取った。大好きなギターの弾き語りで音楽活動をしては、メディアやイベントに出演した。強固な二足の草鞋で走り出した勢いは止まらず、難関国立大学に合格、就職活動では、志望していた会社に就職。小石につまづくことすらなく、順風満帆な人生のレール。
みんなが見ているのは私じゃなくて「優等生」というフィルター
しかし、いつからか自分の周りは「あの」フィルターに囲まれていた。親、先生、上司、友だちからかけられる「あなたならできるはず」の言葉に圧迫感を感じて、全く嬉しくない。まるで、「お姉ちゃんなんだから我慢しなさい」と言われ続けているような気分だ。
ふと振り返ると、走り抜けてきたレールはをとても太く、簡単に外れることができないと気づいたとき、私の心は固く絞りすぎた雑巾のように、ごわごわになってしまった。
夫は私の救世主 フィルターの内側に入ってきてくれた
そんな私に救世主が現れた。去年結婚した夫である。私に毎日「よく頑張っているね。」と声をかけ、フィルターよりも内側でそばにいてくれるとてもやさしい心の持ち主。正面から私と向き合ってくれる人の存在のおかげで、ごわごわの心はやわらかくなっていった。
きっと人それぞれに役割があるのだろう。もちろん、その役割を外れることは悪いことではない。それでも私は、このまま優等生の道を行く。2021年を走り抜ける。
たとえどんなに損をしようとも、周りの人ををがっかりさせないために。世の中にすっぽりはまるように。強く、そしてなるべく丁寧に生きていきたいと思う。