何気ない日常が重なって繰り返す生活。小学校、中学校、高校、大学生活を経て少しずつ私は複雑化してきた。特に都内の女子大で学んだ4年間の経験で世の中に敏感になり、鈍感でいたときの世界の単純さが懐かしくなる日もある。風呂に入るために眼鏡やコンタクトを外して、あれ私こんなに見えてなかったっけ!とテンションが上がるあの感じ。両目D判定の私にはこれが一番しっくりくる説明である。

あらゆる問題が鮮明になった昨年。知らなかった頃の自分には戻れない

自分にかかっていたバイアスに気がつき新しい眼鏡を作って物がはっきり見えるようになっても、またすぐに視界がぼやけてくる。そしてなぜ自分にはこの深刻な問題が今まで見えていなかったのかと反省し、すぐさま新しい眼鏡を作りにいく。この作業には時間も体力もかかるうえ、何度も繰り返さなければならない。

コロナによって雇用における男女格差が浮き彫りになり、BLM運動が活性化し、米国大統領選で分断が深まった2020年。私と同様によく見えなかった頃が懐かしいと感じた人は大勢いただろう。しかし一度問題に気付いてしまうと、もう知らなかった頃の自分には戻れない。

つまり私たちは就活にはパンツよりスカートが良いと勧められたとき、13歳と性交渉してもいいと考える人のツイートを見たとき、異性愛者や特定の人種しか出てこないドラマを見たときに感じる気持ち悪さを一生抱えて生きていかなければならない。

大学時代までは抱え込んだ気持ち悪さを吐き出して愚痴を言い合える友人とだけ関わっていればよかったのだが、今年社会人になるとそうはいかなくなってしまった。古い眼鏡をかけたままの人たちと直接関わらなければならない場面が急増したのである。

固まった価値観で発言する人々は、共通点がなく性別も年代も関係ない

4月の入社からの9ヶ月で実際に聞いた言葉のごく一部を挙げてみると、「このチームの仕事は女性向きじゃないよね」「そんなことするのどうせ中国人でしょ」「ポリコレを気にしなきゃいけないなんて、面倒くさい世の中だ」「今どき日本でお腹を減らして死ぬ人はいない」と吐き気を催すものばかりだ。さらに恐怖を感じるのは、これらの発言をした人々にはあまり共通点がないという点だ。性別や年代は関係ない。

例えば「子どもにはやっぱりお母さんがいなくちゃ」と言ったのは同期の23歳の女性だった。同じ時代に育った女性なのにどうしてそんなことが言えるのだろうかと心の底から驚き、咄嗟に「シングルファーザーとかゲイのカップルは子育てできないってこと?いやできるでしょ」と声が出た。反射速度に自分でびっくりしていると「なんかすごいね…笑」という言葉が返ってきた。「私は〇〇だから子どもにはお母さんが必要だと思ってる」という反論ではなく、問題意識を持つ者への冷笑。この類の反応には幾度となく見覚えがある。

この生き方は大変だし疲れるけど、決してつまらなくなんてない

冷笑の正体はきっと「なんだか大変そうなこと考えてるなぁ、そんなこと気にしなければ疲れないのに。人生つまらなそう」という憐みだろう。先述したように確かにこの生き方は大変だし疲れる。しかし、決してつまらなくなんてない。

誰にとっても難しい年だった2020年にこのような希望が持てた理由は「ブックスマート」であり「エノーラ・ホームズの事件簿」であり「82年生まれ、キム・ジヨン」であり「ザ・プロム」であり「燃ゆる女の肖像」である。

ポリコレに配慮しながらも面白い作品を作れると知っている私たちは、冷笑なんかよりずっと強い。古い眼鏡の彼ら彼女らによって誰かが傷つけられそうになっているとき、そんなことしなくても素晴らしい映画が作れるのだと証拠を叩きつけることができるからだ。

2021年も私は新しい眼鏡を作り、証拠集めに勤しんでいくだろう。そして集めた証拠を用いて、「そんなこと」と思われがちなトピックを気にすることがどんなに重要か証明し続けていく。絶対に女は論理より感情とか言っちゃうようなやつらには負けない。