小説家になる夢を諦めたあの日から、
私はずっと、自分を騙していたのかもしれない。
2020年10月、新宿。
買い物をしようとひとり歩いていた私は、何を見てもときめかなかった。
それはきっと、「心の穴」に気が付いてしまったからだ。
きらきらと舞台女優の夢を追う彼女に魅了され、心の穴に気付いた
「心の穴」に気付いたのは、そこからひと月前の9月。
一人の女性に出会った。
共通の友人を介し出会った彼女は私と同い年の舞台女優だ。あまり顔は売れていないらしく、にぎやかな居酒屋にマスク一つで現れた彼女は、女優という容姿端麗のイメージを悪い意味で裏切った。
失礼かもしれないが、どのクラスにも10人はいるような、本当に普通の女性だった。
しかしその女性は、たった2時間で私を魅了した。
華奢ながら良く通る声で話し、私のつまらない話にも満面の笑みで答えてくれる。あまり大きくない瞳は、スポットライトが当たっていないにも関わらず、きらきらと輝いていて吸い込まれそうだった。そして何より、舞台女優としてもっと成功したい、という野心から来るオーラに、圧倒されてしまった。
正直言って、私は彼女のことを馬鹿にしていたのかもしれない。自分とは生きる世界が違うような気がした。
<大学を出て、大手企業に入社。社会的地位と同年代の女性に比べ高いお給料をもらう。30歳手前で結婚し、仕事と家事を両立させ豊かに暮らす>
いつのまにか心に住み着いていた、幸せのステレオタイプ。自分はそのレールの上を、順調に進んでいる驕りがあったのだ。
給料額もさらりと話し満足そうな彼女を見て、昔諦めた夢が顔を出す
「心の穴」の正体に気がついたのは、彼女との些細な会話から。
その場にいた友人と、今季のコートは何を買うか話をしていたときのこと。友人と私は、今年はダウンを買いたいねと、モンクレかTATRASか、なんてスマホでオンラインストアを見ながら盛り上がっていた。そこに入ってきた彼女は、「すごいね、私の一ヶ月のお給料くらいだ」とケタケタ笑う。
「舞台に出るって、月いくらもらえるの?」
友人は突然踏み込む。お酒が入っているからとはいえ、デリカシーがなさすぎだ。
あっけらかんと「調子いい時でXX万円くらいかな」と答えてくれた彼女だが、生活が心配になるくらいの金額に、友人と私は驚きを隠せなかった。
彼女はそれでも満足そうだった。夢を追いかけるということは、これほどまでに全てを乗り越えられるものなのか。その瞬間に、なぜか「心の穴」が現れた。
自分でも忘れていた、昔諦めた夢が、ひょこんと顔を出す。
そういえば、私は昔、小説家になりたかったんだ。
大学時代、数回酷評されたくらいで諦めてしまった程度だったけど、熱量だけは人生の中でピカイチだった。
彼女が持っていないものを持っているのに、夢を追う彼女が羨ましい
自分が必死で努力し追いかけている幸せのステレオタイプは、夢を諦めた自分の正当化に相違なかった。ちゃんといい会社に入っていれば、夢を諦めたことに後悔なんてしないで済むなんて思っていたけど、諦めた夢への執着は、夢を手にしている人の前で、あっけなく露呈してしまった。
私は、彼女が持っていないものを持っているのに。ブランド物の財布も、親が少しだけ自慢できるような社会的地位も、彼女の3倍のお給料も。
だけど、決定的なものだけ持っていない。
夢を諦めた女には、夢を追う女が眩しくて、羨ましくて仕方がなかった。
たくさんのものを持つ私と、ただひとつのものを持つ彼女。
彼女に会ってからひと月、私はどう生きるべきかずっと考えていた。
だが肌寒い新宿の街で、ふと気がつく。
「明日死んで、今の自分で後悔ないか?」
私の答えはもう決まった。叶わなくても追いかけて、道半ばまでいけたら儲けもんだ。
全部捨ててもいい。もう一度、小説家を目指したい。
2021年、泥だらけになったっていいから、小説家への道を一歩ずつ進んでいく。
それと同時に、自分のステレオタイプを改革していく。
野心を持って、夢を追いかける。それが私の幸せだ。
2021年、死ぬ気でやるぞ。