高校3年生の4月。運動部だった私は、春の大会直前、英単語帳を開きながら駅の階段を下りていた時に足を滑らせ、接骨院通いとなった。突然訪れた出会いは、大事な大会に出られなくなったことさえ運命だと感じさせた。

厳しい部活動。無条件に肯定してくれる心地よい居場所に依存した

“その瞬間”は今でも明確に思い出せる。最後の大会に出られるよう、「接骨院が休みの日にも診てくれる」と言った。自分は特別なんだと舞い上がった。LINEも交換した。他愛もない会話が、同じ時間を共有していることが、たまらなく愛しかった。

最後の大会。勝利のたびにすぐに電話で報告した。自分の実力以上のモノが引き出される快感、期待に応えることができたという充実感。私はチンパンジー並みの判断力で、平静を装って、取りつかれるように通った。強豪校だった部活動は厳しく、無条件に自己を肯定してくれる心地よい居場所に依存するようになった。

私には10歳離れた姉がおり、年下でいるということが楽だ。学歴や社会的な地位にかかわらず、自分よりいくつも年を重ねているということがとんでもなく魅力的で、「尊敬」と「好き」は紙一重だとも思う。いわゆる、「推し」に近い感覚かもしれない。ずるいほどに余裕のある文章は心地がよく、より一層私を引きずり込ませる。

ステップアップの報告をすることが、呪縛から解かれる方法と信じて

大会を終え、自分勝手だと知りながら、思いをぶつけた。年下だから、受験生だから、いろいろな理由をつけて。もう会わないと思った。罪悪感とモヤモヤを抑え込むように受験勉強をし、たまに襲われる恥と不安の解放のために、さらに英単語を頭に入れた。新しい目標を達成してステップアップした自分を報告することが呪縛から解かれる方法だと信じた。

2021年1月。国公立大学の1年生である私は、現在一人暮らし中だ。新しい出会いや経験にワクワクしながら、自分と同じくらいの学力の仲間や1つか2つ年上の先輩との出会いを楽しんでいる。ただ、チンパンジーに陥ることはない。自分の性癖を理解し、過度な「尊敬」は意識的に避ける。少し判断力が鍛えられた私は、夢中になれる何かを常に探して生きている。

大人に近づく途中、ごまかした何かがパッと晴れることがあるだろうか

今年の宣言は、強くなることだ。キラキラと飾り付けした過去にお別れし、独りよがりに片付けた気持ちとうまく付き合うこと。未だ見返せない写真やLINEを整理すること。青年期のど真ん中で、たくさんの出会いとともにゆっくりと大人に近づく途中、ごまかした何かがパッと晴れることがあるだろうか。

さて、接骨院は私の高校卒業後になくなり、高校3年生の日常は、遠くなるにつれて濃く青く感じる。あの時伸ばし始めた前髪は、今では胸の高さだ。
「20歳になったら一緒に飲もうね」
そんな甘い冗談、全く信じていない。