さすがに目を疑った。「壁ランキング3位○○」いや、でも間違いなくこの私の名前だ。
高校2年生の文集。ミスだの、ミスターだの、美脚だの、そんな感じの選ばれたら心躍るHappy!!なランキングの最後の方になぜかあった、「壁」ランキング。1位は189センチの高身長男子。2位は超ぽっちゃり体型の男子。その次が、、、そう。私だ。
もはや私は鼻で笑った。正確には笑うしかなかった。17年間、あらゆることをネタとして笑いに変えてきた人生だったけれど、こればっかりはネタにできる自信がなかった。

壁ランキング女子1位は「かわいくない女子」のレッテルを貼られたようだった

身長が174センチを超える私にとって「背がデカイね」は「おはよう」と同義語だ。
何十回、何百回投げ込まれてきたかわからない。

中学2年生のとき。好きだった男の子が天井をみて、私に「こんちわ!」って言ってきたり。
高校時代。名前も知らない他のクラスの男子に目の前で「俺もデカくなりてえな!」と大声で言われたり。(それを聞いて周りも爆笑していた)
もう"デカイ"に関するエピソードの多さは原稿用紙1枚じゃ、まず収まらない。そんなこと言われるなんて朝飯前だし、いちいち気にしてたらメンタルがいくらあっても足りない。真っ赤っかの大赤字だ。

でも、待って、、。デカイはともかく、さすがに壁って、、、、。酷くないか?

私がモデルの杏さんのようにすらっとしてて、私が桐谷美玲さんのようにきれいな顔をしてて、私が悪い意味でマスコット的存在、いわゆるいじられキャラじゃなかったら、この壁ランキングには入っていない。きっとね。

それは私にとって薄々気づいていたけれど、見て見ぬふりをしてきたけれど、ドッカーンと決定打となった。「私はクラスメイトから女としてみられていない、かわいくない女子なんだ」と。

かわいくない私に残された言葉は「虚無感」だけ

高校生は残酷だ。会社名も、出身大学も、年収も、家族のことも、結婚願望の有無も信仰宗教も何一つ関係ない。多少淡い期待はしていても、今付き合う人と本気で結婚するとまでは思っていない。
だから男子にとって「かわいい」「美人」が何よりの選考基準だ。かわいければ、ぼーっと待っていても彼氏ができる。チアリーディング部に入ることをみんなから暗黙の了解で認めてもらえるし、廊下で歩いているだけで、「サッカー部のマネージャーにならない?」と声をかけてもらえる。

私は心のどこかで、いつか私にも「かわいい」という言葉のシャワーが降ってくるかもしれないと期待していた。いきなり月曜日からクラスの男子の「かわいい」の観点が180度変わるとか。「あいつよく見たらかわいいよな」とか。
でも、降ってきた、いや、強制的に正面から押し付けられたのは「かわいい」ではなく「壁」という2文字だった。裏通りで待ち合わせして優越感に浸りながら彼氏とカップル繋ぎすることも。文化祭マジックで後夜祭後に「ちょっといい?」と気になるあの人に呼び出されることも。何度も何度も妄想し、何度も何度も夢見たけれど、全て曇り空の彼方に消えた。

かわいくない私に残された言葉は「虚無感」だけだった。私は何も持っていない。かわいくないは×0と同じだった。華のJ Kなのに、市内で1番かわいい制服なのに、かわいくないの×0をするから、全部0だ。全部パー。何の恩恵も預かってない。虚しい高校生活だ。

見た目は一瞬、人間性は一生。どん底の気持ちから一転した「ドラえもん論」

そんなことを思っていたある日。修学旅行のバスの中で私は1人ぼんやり外を見ていた。斜め後ろでクラスメイトの男女がやけに盛り上がっていた。別に興味はないけれど嫌でも会話が耳に入ってくる。また高校生が大好きな順位付けが始まった。何のランキングかまでは聞こえなかったけど、いろんな名前が上がって「わっかるうー!」「まじか!」という声がする。

クラスのお茶目で人気者の私的にはちょっといいなと思っていた男子が「クラスの女子全員がドラえもんだったら誰が1番いい?」とみんなに投げかけた。どういうことかというと、クラスの女子20人全員が同じ容姿=ドラえもんだったら、誰がいいかということだ。今思えばものすごい質問だ。

そして、その男子は小声で言った。「俺は〇〇さん(私)が1番だな」。小さい声だったけど、確かにそう聞こえた。そして驚いたことに、「だよね!」「めっちゃいいよね!」「〇〇は優しいもんな」と盛り上がり、ついに満場一致で私がぶっちぎりの1位になっていた。私はびっくりした。

当然、最初は微妙な気持ちだった。私は中身がいいらしいのに、外見がだめだから全くモテないことが再度明らかにわかってしまったから。クラスの女の子で彼氏持ちなんていくらでもいた。だから少し複雑だった。

でも、、、、、。私はそれ以上にとっっっっっってもうれしかった。なんの取り柄もない私が。×0の私が。中身になれば×プラスでいられることがほんの少しわかったから。自分の中身に自信なんてさらさらなかったけれど、私はもしかしたら中身は自信を持ってもいいのかもしれない、もしかして私ちょっといい奴なのかもしれない、と気づかせてくれたから。

「ドラえもんだったら1位」。一見すると微妙だけど、この言葉は歳を取ればとるほど私に自信と勇気をくれる言葉になっている。

かわいくあること以上に信頼性、人間性が求められるのが社会人だ。体調不良で休んだときに、普段から信頼関係が築けていたら助けたいし、フォローしようと思うだろう。歳をとったら白髪は昨日より増えるし頬も垂れる。かわいさや若さを味方にはできない。飲み会で1円も出さずに「ここはいいよ、いいよ」と許される時代なんて長い人生から考えたら一瞬だ。

でも、中身があれば、心があれば、本当の意味で美しくいられる気がする。桜のように一瞬で散ることもなく、細々とでも、根強く咲き続けることができる。

私は壁じゃない。ふざけて電柱と呼ばれていたけれど、やっぱり電柱じゃない。私は物ではない。物と生き物の違いはきっと心という中身があるか、ないかだ。

あれから10年以上経つ。あのときから私も随分ズルくなったし、ブッタに怒られるほど煩悩塗れになった。損得も考えるようになった。今、あの彼に再び「ドラえもんだったら1位」と謳ってもらえる自信もない。でも、もしこの先彼に会ったとき、恥ずかしくないような中身のいっぱいつまった美味しいアンパンみたいな、素敵な人間でありたいなとは常々思っている。