ああ、意味わからないくらい綺麗だ…
冬のニュージーランド、誰からも見向きもされない田舎のビーチ。水平線がみかん色に滲む。背後から忍び寄る紺色の空との境界は曖昧で、薄紫色が天井を包んだ。淡くて脆い夕刻のグラデーションが、火山灰で出来た真っ黒なビーチに反射する。
いつの間にか私は、裸足で冬の海に入っていた。寒さで足が痺れるまで、グラデーションの世界を走った。足元のグラデーションは、波に飲まれ、頭上のグラデーションは、夜に飲まれていった。
帰路の車中でも、乾き切らない足は冷えたままだった。「星を見る?」と、車を運転してくれた、友達のホストマザーが小声で囁く。「うん、寝てるみんなを起こさないように」と私も囁いた。古びたバンは道路脇に止まった。
靴を履く気にならなかった私は、裸足のままバンを降りた。コンクリートの冷たさが足の裏に刺さった。たまらなくなって道の脇に生い茂る膝丈くらいの草むらの中に飛び込むと、土と草の感触がくすぐったくて心地いい。
この足元で、虫たちは眠っているだろうか。車や街灯の光を避けるため、奥に進む。
夢中だった。多分この大地に夢中だった。地球と接点をもてたことがたまらなく幸せだった。
天上には、無数の光。誰が夜空を描くときは、紺色で塗りたくれと私に教えたのだろうか。理科の授業で作らされた星座早見版でも見たことない空がそこにはあった。
きっと、この無数の光の中には、ヒトがまだ見つけていない星が隠れているんじゃないだろうか。とっさに、「見つからないようにね」と、空に向かって呟いた。
都会の光の中で感じる、何者かにならなければならない苦しみ
そんな奇跡のようで当たり前の体験を、東京に戻ってからふと思い出すことがある。トリガーはいつも「夜景」だ。東京の高層ビルから見える無数の光は、多くの人にとって「美しい」らしい。
でも、わたしには、そうは思えなかった。眺めれば眺めるほど、夜が深ければ深いほど、ギュッと胸を掴まれ、苦しくて切なくて、たまらなくなるのだ。
動け、勝て、成長しろ、何者かになれ…。忙殺され、いつの間にか悲しみに蓋をして、喜びは一辺倒になり、何かを愛でる気持ちを忘れ、幸せの形がわからなくなる。
”普通”では、ありたくないのに、どこか他人行儀な教育を経て、いつの間にか、誰かと同じ幸せを掴むため、モノクロの世界を、ただ、ひた走るようになった。
そんな人間たちの営みがつくり出す、同じようなLEDライトで作られた「美しさ」からは、「もういっぱいいっぱいだよ…」という悲鳴が、聞こえるのだ。誰も、そのままではいられない景色。窓から空を見上げても、星座早見版の通りのオリオン座しか見えなかった。
そんな街で生き、何者かにならなくてはいけない苦しみを感じるとき、あのグラデーションの世界を思い出す。確かに、そこには地球があった。完璧な球体ではない奥行きが、私という存在を包んでいた。そのまんまでよかった、そのまんまでよかったんだ。生きる意味なんて考えなくても、何者でもなくても、「今のあなたで、じゅうぶんにあなただよ。」と、無言で包んでくれる世界があるんだから。
小さな光を燃やしながらグラデーションの世界を思いだす
多分、明日も私は、この夜景の一部として何者かになろうとするだろう。
そんな夜にはカーテンを引いた暗い部屋で、1本のお香に火を灯す。
小さく暖かい光から少しずつ少しずつ柔らかな灰が生まれる様子を、ぼぅっと見ながら、あの空に瞬く無数の光を思い出すのだ。まだ、ヒトに見つからないでいる星が、きっとあって、どこかで命を燃やしていることを。
何者でなくても、小さな炎を燃やしていれば一瞬の暖かな光と柔らかな灰は生まれ続ける。なのに、私たちはきっと、灰をかき集めて、輝こうとして、「ヒトに見つからないでいる星より、教科書に載ってるベテルギウスの方が偉いか」なんて頓珍漢な話に、悩み続けるんだろう。
1本の香が燃え尽き、グラデーションと見えない星の魔法がとける頃、地球はこっそり教えてくれる。「グラデーションの世界で走って、少し立ち止まって、”いまのあなた”と一途に向き合って、抱きしめて。小さく燃える炎のその小さくて暖かい光が、きっと一番自由なはずだから」。