私は友達や同僚やとにかく自分の好きな人達にサプライズを仕掛けるのが大好きだ(本当に好きな人達に限る)
友人に「私が人生で大事にしているもの/ことって何だと思う?」と尋ねたところ、「仲間」と即答されるほどである。
サプライズの準備は大変。でも頑張ってしまう
例えば、お誕生日の友達や同僚に向けて仲の良い人達からメッセージを集めてカードを作ったり、ケーキを手配したり、退職する同僚へメッセージの詰まった冊子を渡したり、というよくあるサプライズなのだけれど、これって"誰か"が「やろう」と言って行動し始めないと形にすることは出来ない。当たり前のことなのだけれど。
私はその"誰か"になることが多かったな、と我ながら思うのだ。
期限内にメッセージを集めるのだってけっこう大変なのだ。
協力してほしい人に直接コンタクトをとって企画の趣旨を説明してからお願いをしないといけないし、期限間近になってもメッセージをくれない人達にリマインドもしなくちゃいけない。ケーキを手配して、どこに皆を集めて、どのタイミングで渡すか、BGMはどうするか、誰が渡すのが一番良いか、などなど意外と考えることも多い上に当日の当本人のスケジュールを把握しておく必要もある。
メッセージ集めをしていると、協力者のうちの数人から決まって「えらいね」とか「マメだね」と言われる。
そして毎回企画をする度に忙しいタイミングが必ずあって、「なんで私こんなに頑張ってるんだろう?」と自分でも思うことがある。「別に私がやらなくても良いことなんだけど、何で毎回やっちゃうんだろうか?」
この問いに関しては「人を喜ばせるのが好きだから」とか「人の笑顔を見るのが好きだから」と言った感じの平凡な回答が容易に想像出来るので、ぐいぐい聞いてくる人もいなければ、自分でもあえて真剣に考えることもなかった。自分の中にもこの平凡な回答があるのだろうと無意識に思っていたのかもしれない。
喜ばしい日がただの何でもない日になってしまうのが嫌なのだ
ある日、私が船で働いていた時に仲の良かった同僚が、この問いに対して真剣に考える機会を与えてくれた。
彼女はアニバーサリー担当で、船内のお客さんやクルーの誕生日に毎回ケーキなどを手配していた。
彼女自身の誕生日の日、私は当然彼女のお祝いもしてあげたかったので、いつも通り彼女にばれないように同僚たちからメッセージをかき集め、エジプト人のシェフに直接ケーキを注文すべく普段行き慣れないペストリー部門に恐る恐る乗り込んでみた。
もちろん自分の業務もあったので、休み時間を使って少しずつ計画を進めていた。
誕生日当日、彼女はとても喜んでくれた。普段沢山の人のお祝いをしている分それが大変なことだとも分かってくれていたので、こんなことを言ってくれた。
「いつも自分がやる側だから、本当にびっくりした! 実際に自分が祝われると嬉しいね! でも大変だったでしょう? 私、仕事だからやってるけど、自分の業務以外だったらやってられないよ」
それから、わりとぐいぐいと私に質問をしてきた。
「なんでそんなに人の為に動けるの? 毎回誰かにサプライズとかを仕掛けてるイメージがあるんだけど何がそうさせるの? どういう気持ちで生きてるの?」と。
唐突だったので、「人が喜ぶ顔を見るのが好きだから」と言う、あのなんとも平凡な回答が口から飛び出してしまったのだが、やっぱり納得いかなくて、部屋に戻ってから真剣に自分に問いかけてみた。
誰もやらなくても特に問題はないけど、誰かがやれば喜ぶ人がいて、誰もやらなければ、喜ばしい日もただの何でもない日になってしまう。私はそれが嫌なのだ。やれば出来る事をやらないで見過ごすことが気持ち悪いし、やっぱり何より喜ぶ顔が見れた方が良いに決まっている。
ここに辿り着いた。
大切にするべき人には容赦なく歩み寄ってしまうのが私
誰も動かなくたって、何もしなくたって、特に問題ないことなんて世の中に溢れている。
ただ、当たり障りない時間が流れていくだけのことだ。
別にそれでいいって思える人も世の中沢山いると思う。だけど私はそれだと物足りなくて、自分のアクションによって何かを、誰かをプラスの方向に変えられるのなら、居ても立っても居られない。そんな性質を持っているんだってその時初めて気付いた。
これは別にサプライズに限った話ではない。
例えば疎遠になってしまった友達に「メリークリスマス」とメッセージを送ってみるとか、遠くで暮らしている友達に手紙を書いてみたりとかも同じだと思う。
別に送らなくても世界は変わらないし、自分の生活自体も特に変わらない。
だけど、そう言う小さなアクションが目の前の人を喜ばすきっかけになると私は信じている。だからお世話になっている人や大好きな友達、大切にするべき人には容赦なく歩み寄ってしまうのが私と言う人間なのである。
今までも、これからも。