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5 かける 7 は 35。

数字をみると、関連付けをして覚えようとしてしまう。
そんな癖があるせいか、数字の記憶が蓄積しやすく、もう20年近く会っていないような子の誕生日も覚えていたりする。

幼稚園の頃に、遠く離れた祖父の自宅の長い電話番号を覚えられたのが嬉しくて、朝6時に祖父におはようと元気よく電話をかけて、両親に怒られたことがあった。
月の最後の夜は、翌月のお誕生日の子をひとりずつ思い浮かべて過ごした。

自分が平凡であり、退屈な発想しかできないのだと思い知らされた

思えば、わたしの記憶はひとに関するものばかりだ。
幼稚園の写生の時間、庭の風景を描きましょう というお題が与えられたことがあった。
その日は綺麗な晴天で、みんながこぞって青空と太陽を描いた。
わたしも例にもれず、空を青く、太陽は赤く、その日のまぶしい陽射しを表現しようと、真っ赤なクレヨンを強く握り締めて懸命に塗っていた。
ふと、隣をみると黄色いクレヨンを握っている子がいた。
その子は、青い空に、黄色いクレヨンでほわほわとした丸を描いていた。
まぎれもなく太陽がある位置だが、赤じゃないし丸でもない。放射状の光もない。
絵本でもアニメーションでも、赤い太陽ばかりにかこまれてきたわたしはびっくりして、「なんで太陽が黄色なの?」とその子に尋ねた。
「だってお外の太陽は赤くないから。でも本当の色はクレヨンのなかにないから一番近い黄色にしてる」

太陽は赤。
そう思い込んでいたわたしにはとにかく衝撃的で、また、自分がそうした自由な発想ができないことに幼いながらに深く落ち込んだ。
自分が平凡であり、退屈な発想しかできないのだと思い知らされた。

特別な誰かの感性が彩ったこの世界の一部になりたかった

幼いわたしに芽生えた小さな衝撃は、思春期を迎えると当たり前のように劣等感として実が成ってしまった。
物理が得意なあの子は、グラスに揺蕩う氷をみると「この氷の浮力はどれくらいだろう」と計算をはじめる。
絶対音感を持つあの子は、猫の鳴き声の音階を聴き分けて猫とおしゃべりをすることができた。

わたしは太陽を赤以外で塗ることを知らなかったし、氷の浮力はいまだに計算することができないし、猫とおしゃべりすることもできないからこそ、特別な感性を持ったみんなが彩った世界に憧れた。
わたしの日常の彩りは、わたしのまわりの特別な感性を持つみんなの彩りで作られたものだ。

そんな特別に彩られたみんなとわたしとを結びつけるものが数字だったように思う。
誕生日 電話番号 住所……。
だからせめて、みんなのお誕生日には感謝を伝える。
「生まれてきてくれて、わたしの日常を彩ってくれてありがとう」という気持ちをこめて。

太陽を黄色く描くあの子のお誕生日は、11月21日だ。