わたしの感性は変わっている。
人に、わかる!と言ってもらったことがない。
もう変な人としか思われないからいうのもやめていた。

多分もう、病気なのだ。
親はそう思いながらもこれを個性として育ててくれた。
なんとか生活に支障はなかったこともあり、お医者にかかったことはない。
ちなみにこのお医者という表現は、さだまさしの『緊急事態宣言』という曲で見つけ、気に入ったから使っている。

人が意図的に出した音については色や風景を感じ取ってしまう

そう、私の感覚の中でも顕著なのが音についてだ。
幸い物音については何も感じないが、人が意図的に出した音については色や風景を感じ取ってしまう。
たとえば、音楽や歌とか。
動物の鳴き声についても色を感じる。求愛のものは比較的わかりやすい。
特に個体差があるウグイスの鳴き声なんかは差が歴然だ。
うまい鳥の声は、パッと輝きながらも奥行きのある上品な色をしていて余韻も美しいが、
あまり上手ではない鳥は原色の絵の具の残りをどばっと白いパレットにぶちまけたように見える。
美しい声が素晴らしい分、そういう声を聞くときはなんとも残念な気分になる。
苦労するだろうな。頑張れよ、と心の中で思いつつ。

例えばラグビーの日本代表応援ソングになったB’zの『兵、走る』は、意外かもしれないが私には深緑に見える。コートの色がありありと浮かぶ。
松田聖子の『赤いスイートピー』は菜の花色。
忌野清志郎の『雨あがりの夜空に』は臙脂色に明るい灰色が混ざっているだろうか。ちょうど彼のジャケットの色と同じだった。
YMOの『東風』は黄緑と黄色の二色の円盤が回っているように見える。
カシオペアの『ドミノ・ライン』は赤が強めの信号機。
ルイアームストロングの『What a Wonderful World』は浅葱色。
ビートルズの『Help!』は目にも鮮やかな黄色を白い筋状の雲がゆっくりすぎたり早く過ぎたりする。
クイーンの『We Will Rock You』は強い意志を感じさせる土色。
レッチリの『Dani California』は山吹色がくすんだり水玉があふれたりする。
曲の途中でもころころと新しい色が現れては消えまた現れるから、複数の色が見える曲がほとんどだ。
どれも少し黄色がかっているのは、輝いているからだと思う。

透明な曲は、やり場のない気持ちを放りたい夜に聴きたくなる

そんな中、最近の曲はほとんどが透明だと気づく。白より透明に近いと感じている。
これが面白いことにー私の主観に過ぎないがー、最近の曲のどのジャンルにも言えることなのだ。
この人は透明な曲を作る人なのか。
と思えばまだ納得するのだが、複数のアーティストの曲が、しかも複数のジャンルで、透明なのだ。
驚いて聞き直して思った。いわゆるボカロ曲も透明だった。
透明の奥に色もうっすら見えるのだが、私には判別できない。
PVはあんなに色鮮やかなのに。

アニメや漫画も好きだからボカロに悪いイメージはない。好んで聴いていた時期もあった。
最近の曲だってきらいなわけじゃない。私も聴いている。
透明だからこそ、やり場もなく捨て場もない気持ちを放りたい夜にこそ聴きたくなる。
その透明さがすっと染みて、心のもやもやをすいとってどこかへやってくれるような、はたまた透明だからこそ歪な心の隙間にすっとはまるような、そんな感じがする。
こういう曲を好きになったのは、難しいことを考えるようになってからだった。
確かに最近の曲って、がんじがらめで動けないような状態を表す曲が多い気がする。
あまり詳しくはないのだけれど。

透明な曲も、色のついた曲も、きっとどちらも力を与えてくれる

私はこちらが透明だからこそ色を与えてくれる曲が好きだった。
どんな曲を前にしても、私は透明だ。
どれも尊敬に値するものだから、それを待つ私は余計な知識も考えも持たずに透明でいる。
他でどんなにくすんでも、色を持っても、曲の前ではまっさらの自分に戻るのだ。
あの人は青い曲が多いから今回も青いんじゃないかとか、黄色が来るとは意外だったとか、そんなことを考えながら聞くのは疲れる。
単純な頭で、その素晴らしさに全身を打たれたい。

だから透明な曲を聴くのはよっぽど疲れた時。
何かに振り回されて、ぼろぼろになって、疲れてもう何も信じられなくて、何も考えたくない時や、自分がきらいになりそうな時。
心は疲れ切っているのに、体は元気な時だとか。
そういう時こそ音楽の力が必要なのかもしれないけれど、そういうことばかりで生きるのは苦しいはずだ。

素晴らしいものに心打たれて、誰かを尊敬して、周りの声に左右されないで、個性なんかに囚われないで、変に利口にならないで、あなたはあなたで生きて欲しいと心から思った。
透明な曲と生きていくあなたに、ぜひ色のついた曲も聴いて欲しい。
きっとどちらも力を与えてくれるはずだから。