私には最近ネット上で見かけては、その度に胸に引っ掛かる、というか、もはや引っ掻き傷を付けられる類いの呟きがある。それは、

「こんな時代に子どもを産んで育てていくなんて信じられない」

というひとこと。そして私は、こんな呟きに対して違和感、もはや嫌悪感を持つにも関わらず、未だしっかりとは向き合えていない。この呟きは何というか、完全に私の人生における痛いところを、的確に刺してきている気がするのだ。

ネット上の様々な言葉を拾っては、ナーバスな気分になる

まず、筆者いくらの現状を開示する。年は29歳。そして、4歳と6歳の男の子ママ。そして春先には赤ちゃん(多分女の子)を出産予定の妊婦だ。第3子の妊娠が発覚したのは去年の夏。なのでこのお腹の子は、afterコロナの世界で授かっている。

つまり私は完全に「こんな時代に子どもを産んで育てていく」親なのである。

私がこんなひとことに対して、「ほっといてくれや」と思い、スルーしてしまえば、それで済む話なのかもしれない。しかし、ここで言う「こんな時代」というのは、様々な意味を内包しているのだ。
例えばどんな時代なのかというと、「ルッキズム至上主義の時代」「不景気の時代」「コロナ禍の時代」「『子育て罰』という言葉が産まれる時代」などなど……。

羅列していたら、クラクラしてきた。これらは全て実際に色んな場所で、この「時代」に対して言われている事。私も今がそんな「時代」である事を重々知っているし、当然、私自身もそんな「時代」に生きている。

これら多種多様の時代背景を掲げた上で「子供を産み育てる決断が信じられない」と主張する人達の呟きを、私は最近ネット上の様々な場所で拾っては、ナーバスな気分にさせられている。

人をナーバスにする呟きをして、誰かに良い影響を与えられるのか

私が「時代」という言葉から連想する他の1文といえば、ゼクシィの「結婚しなくても幸せになれるこの時代に、私は、あなたと結婚したいのです」という、幸せ感が滲み出すコピー。

これになぞらえて私の状況を言い表すならば、

「子どもが幸せになれるとは限らないこんな時代で、私は、あなたと子どもを産み育てていくのです」

となるのだろうか。……なんでだろう、しっかりと文字ったはずなのに、後者の絶望感、すごい……。

今の世の中を「こんな時代」と言い表す気持ちは、私にも分かる。子どもを産まない事で手に入れられる幸せの形があることも、想像に容易い。妊娠や出産は必ずしも思い通りにいくものではないし、抱える背景は人それぞれだ。だから、「多様性」が尊重される社会も実現したい。それは親の立場からも、激しく同意である。

……でもさ、「こんな時代」に子どもを産んで育てている人をナーバスにさせる呟きを発信して、誰かに何か良い影響があるのだろうか。

画面の向こうの、私が顔も名前も知らない知らない誰かにとっては、親になる人の「人生の決断」や「親子の時間」が信じられないのかもしれない。けど、人間の親はネッシーじゃないし、赤ちゃんだって宇宙人じゃない。ちゃんと画面のこちら側に、実在している。

「こんな時代に子どもを産み育てるなんて信じられない」というひとことの裏には、その人自身の傷付きや怒りがあるのかもしれないが、私はそこまでは汲み取ることはできない……。

「あんな時代」もあったねと言って、みんなで笑い合いたい

確かに長い人生、先の事はわからない。「こんな時代」なのだから、尚更だ。でもその、先行きの見えない不透明感は、子どもの有無だけで片付く話ではない。「時代」の良し悪しによって「人生の決断」や「親子の時間」が否定されている状況って……それはもう同時に、呟いた人が本来望んでいるはずの「多様性」の否定になっちゃってないか?

「多様性」って、昨今簡単に言われる言葉だけど、これってつまり「信じられないことを知ろうとする」「自分とは異なる生き方の存在を認める」ということだと思う。そこに多数派、少数派などという区別をせずに。

それこそ「こんな時代」に生きる私達だからこそできる事は、多種多様な価値観を知り、認め、視野を広げる事なんじゃないだろうか。SNSに飲み込まれずに、活用する。そんな新人類に、私はなりたい。

私はこれから大人になっていく子ども達が幸せになる未来を望んでいるし、子どもを持たない人達にだって、幸せになって欲しい。「こんな時代」だからこそ。

我が子や旦那に対しては、これからもお互い楽な人生ではなかったとしても、私達が家族で良かったなと思ってもらえたら嬉しい。「こんな時代」だからこそ。

2021年の「こんな時代」の先、今から何10年か経ったいつの日か。「あんな時代」もあったねと言って、みんなが笑い合うことができればいいなぁと、私は思う。