私にとっての「ふつう」は、「みんな」なんだけれど、
私はまだ、「みんな」を見たことがない。
声も聴いたことがない。
それなのに、今まで生きてきた中で私が決めたことは、「みんな」に影響されている。
その「みんな」は、テレビかSNS、ネット、同僚、友達、家族にきっと姿形を変えて潜んでいるんだと思う。

目に見えない「みんな」を気にして、私の好きなものと個性が削られた

大人になってから、好きなものを食べて、働いて、遊んだ。
自分で選んできたはずだった。

でも、「『ふつう』を超えた」出来事を考えた時、悲しくなってきた。
思い出せないだけではないな、と思った。

自分で行きたいところに行って、仕事をして、見たい景色を見てきたはずなのに。
行きたいところは、誰かがSNSに写真をアップしているところで、食べたいものは行列ができている店で、仕事はみんなと予定があわせやすそうな会社に入社した。

だって、「みんな」の言うことを聞いておけば、失敗しないし、恥ずかしい思いもしないし、傷つかないんでしょ?

不特定多数の人の目が、私を見て、判断しているような気がしたから。
誰も私のことなんか見ていないはずなのに。

人から変だと思われていたらどうしよう、という不安のせいで、どんどん年齢を重ねるたびに、窮屈になってくる。
自分の選択が、「ふつう」に染められて、見慣れたものになってきた今日この頃。

好きなものと個性がどんどん削られてきた。

「ふつうはこうだよ」。私を縛るその言葉で、私も誰かを縛り付ける

「みんなはどうなんだろう」
自分以外の人の「ふつう」を知りたくて、SNSでのチェックはかかせない。
そして私も、みんなの内の一人に、日常のように私の知っている「ふつう」を言う。
SNSでチェックした時に、そう書いてあったからこうなんだと思う、そんな言葉でみんなを縛って、自分を安心させて、仲間を作ろうとする。

誰かの目線に今日も怯えている。
そうして、見えない「みんな」は私に囁く。
「不安はないの?みんなはこうらしいよ」

私を仲間に入れてくれませんか。
決して変な人ではありません。
常識も知っています。
迷惑もかけません。

人と違っても、ふつうじゃないと笑わないで。見失った自分を取り戻す

ただ、最近気づいたことがある。
「みんな」を語る時、みんなも私も、自分を「みんな」には含んでいない。

みんなと違うと不安になるし、仲間でいたいと願うことと同時に、その中でどうか違う色を持っていたいと感じている。

誰かと仲間ではいたいけれど、同じような人間ではいたくない。
どうか、私の個性を見て下さい。
私は、生まれてきてからこんな人生でした。
父と母はこんな人で、だからこんな性格になって、ちょっと変なんだよね。

「ふつう」でないと怖くなるけれど、どうしても、私は私でいたい。
私にしかない「なにか」を誰かに見てほしい。

自分でも分からなくなってしまった私の「なにか」を見つけても、気づいても、どうか変だとは言わないでください。
今、この「なにか」を研ぎ澄ましているんです。

ちょっとずつ、ちょっとずつ、「ふつう」から卒業させて。

姿形のある人間が生み出した、(その人の知っている限りの)変じゃない、誰かの「ふつう」は本当に、私にとっての「ふつう」なのかな。

私の「なにか」は、誰かに「ふつう」だと笑われるかもしれないけれど。
個性でもなんでもないと思われるかもしれないけれど、それでいい。

自分が、本心で望んでいることが「ふつう」な時だってある。
人と違うことをすることが、人が選ばないものを選ぶことが、「ふつう」ではないという意味にはならないから。

ちょっとずつ、ちょっとずつ。
どうか。