私は小さな頃から学校というものが嫌いだった。
たくさんの人がいて、騒々しくて、いろんな感情が飛び交うあの空間にはいつも居心地の悪さを感じていた。

毎日そんな場所へ足を運び、1日の大半の時を過ごすのは苦痛でしかない。
それに離婚や引越し、転校などの家庭環境の変化が大きい時期が重なり、ストレスを抱えることが多かったためか、小学3年生のある日、私は朝になっても布団から出られなくなった。

「働かざる者食うべからずやで」と、母がぴしゃりと言い放った

しばらくして、私は学校の先生からも親からも「不登校児」という不名誉な肩書きを得ることとなった。
学校を休んだ日は担任の先生が迎えに来ることが度々あったのだが、私はそれが嫌で嫌で仕方なかったことを覚えている。
自分が情けないやら、先生が怖いやらで、あの心臓がきゅうとなる感覚は思い出したくもない。

だから私はトイレに隠れ、内側から鍵を閉めて先生が諦めるのを何時間も待っていたりしたものだ。
今思うと、本当に手のかかる子どもだったろうな。

学校に行かない日が増えていく中、私は小学6年生になっていた。
そんなある日のことだ。
私が家に置いてあったクリームパンを昼食にしようと、手を伸ばしたとき、「働かざる者食うべからずやで」と、母がぴしゃりと言い放った。
その時の言い方はあまりにも冷たく尖っていて、私は何も言えずに昼食を諦めてそのままいつものように布団に潜ったのだった。
そして布団の中から母の様子を伺うと、母と妹がそのパンを黙々と食べ始めていた。

母は仕事に行っているし、妹は私と違って不登校ではないから食べてもいいんだな。
そうか、学校に行っていない私は昼食を食べる権利すらないのだと、自尊心というものがスっと消えていくのがわかった。

私が不登校で無価値な人間だから、どうやら愛想をつかされたのだ

そして私は気づいてしまった。
母にとって私は学校をズル休みする穀潰しという存在でしかないのだと。
私がもっと元気だった頃は料理を作ってくれたり、一緒に遊んでくれていたのに、今や私の食事は買い置きしたレトルト食品ばかり。
母は私と向き合って話をしてくれるわけでもない。
私が不登校で無価値な人間だから、どうやら愛想をつかされたのだと思った。

ならば、学校にも家庭にも居場所のない私はなんのために生きているんだろう。
そんな気持ちがどんどん大きくなっていき、この世界から消えたいと思うようになった。
家に誰もいない間に、住んでいるアパートのベランダから地面を覗いたこともあった。

その後、私は児童相談所に保護され、なんとか人生が好転して今に至る。
子供の頃は不登校だった私でも、今の仕事は休む事なく3年も続けられている。
無事、自立した立派な人間に育つことができた。

もし大切な人が働けくなったら、温かいご飯を食べさせてあげたい

思えば、子ども時代は長い悪夢を見ているようだった。
周りの環境も、私の心も何も満たされていなかった。
自分の生まれた環境を憎み、幸せそうな他人を羨む日々だった。

でも、夢から覚めれば記憶は薄れるように、今の私にとって子ども時代の記憶はそんなこともあったなというくらい、脳内でモザイク処理が施されている。
たまに夢に出てきたり、ふとした瞬間に鮮明な記憶が蘇ってナイーブな気持ちになることはあるけれど、今が人生で1番幸せだと言える。
そして、これからも幸せを更新していきたいと思っている。

ただ、あの時の母の言葉は、今でもたまに思い出す。
スーパーなどで例のクリームパンを見たら、たまにあの時の情景が一瞬頭によぎるし、職場で失敗をした日は、同僚の前で昼食をとるのに緊張することがある。
仕事もまともにできない私がのんきに昼食をとっていいのだろうか、という考えが頭を巡るのだ。自分以外の人もこういう事を考えたりするのだろうか。

「働かざる者食うべからず」

この言葉はまるで時代遅れだろう。どこかのブラック企業で使われていそうだ。
私は不登校やニートが食事を摂る権利がないとは思わない。
心身の不調など、何らかの理由があって働けない人が、もしも、自分の大切な人だったら、その時は寄り添って、温かいご飯を食べさせてあげたいと思う。