「生物が生きる目的は種の保存である」

その独特の甲高い声を聞いた時、私はなんだか自分が得体のしれないものになった気がした。ノートを取っていた手を止めて、黒板を虚ろな目で眺める。その間も新米の生物教師が教壇をカツカツとヒールの音を立てて往復して、生物とはを説いていた。高校一年の時の話だ。

私は己の恋愛対象について、性別に制限をかけていない

先に断っておくが、私の性別は心も体も女である。毎月律儀に訪れる月経の痛みには辟易しているものの、己の性に肉体的な嫌悪感を覚えたことはない。ただ、高校の生物基礎の時間に女教師が淡々と述べた他愛のないその言葉に、わだかまりを感じたのだった。もちろん彼女は倫理ではなく生物の教師であって、染色体の範囲を消化する第一声としてこの言葉を発したのは当時も理解していた。でも。将来、もし子を成さなかったら生物として自分は失格になってしまう。そんな根拠のない焦燥感をその時私は感じたのだった。

私は己の恋愛対象について、性別に制限をかけていない。以前元カレ(身も心も男性な、いわゆるマジョリティに属する人だ)にそう話したら、「見境ないの?」と言われて辟易した。そうではない。バイセクシャルやパンセクシャルの人が全員あばずれなわけがないだろう。私だってそうだ。誰でもいい、なんて訳がない。

突然ですが、あなたの好きな人のタイプはなんですか?

「笑顔がかわいいショートカットの女の子」「170cm以上の顔がいい男」「いい匂いがする男性」「韓国系みたいな細身で黒髪が似合う娘!」

…色々あると思う。私だって好みのタイプはある。ただ、そこに性別が条件として入らない。それだけのことだ。恋人ができればその人の笑顔がみたいと躍起になるし、そうしてこちらも笑顔になる。価値観の一致に安心感を得て、相違はちょっとしたスパイスになる。もちろん程度はどうあれ欲情だってする。その人に一筋で、浮気などは誓ってしない。

もちろん「愛してくれれば誰でもいい」なんて人もいるだろう。でもそれはバイセクシャルやパンセクシャルの総意ではもちろん無く、単なる個性だ。異性愛者と倫理観はそう変わらないのだ。

被害者ヅラをして、いくつかの恋を自ら壊してきてしまった

ここからは本格的に私個人の話になってしまうが、私はカテゴライズされることが嫌いだ。「真面目だね」と言われれば盗んだバイクで走り出し夜の校舎窓ガラス壊して回りたくなるし、「不真面目だね」と言われればそれはそれでふてくされる。「可愛い系だよね」と言われればミニスカートを捨てて長めのスカートやパンツでキレイめにまとめるし、「誠実だよね」と言われればLINEの既読スルーをしてみちゃったりもする。要するに軸がブレブレの天の邪鬼なのかもしれないが、とにかく単語でカテゴライズされることを嫌うのだ。己はうっかり他人をカテゴライズしてしまうくせに。

カテゴライズというものについて、私はよく恋愛で悩むことがある。私の恋人になる人たちは皆「ショートカットの女の子が好き」やら「脚がエロくていいよね(は?)」やら「目がくりくりで大きくて良い」と言う。じゃあ、もし私がロングヘアだったら?脚が魅力的じゃなかったら?切れ長のかっこいい目だったら?………男だったら? この人達は私を愛したのだろうか。愛って、そんなに脆いものなのだろうか。私は見た目なんかであなたを選別していないのに。そう被害者ヅラをしていくつかの恋を自ら壊してきてしまった。

このことで今でも悩むことはある。でも考え方は変わった。私だって、外見では設定してないだけで「好きになる条件」は少なからずある。例えば、”飲食店を出るときに店員さんにごちそうさまが言える”とか、”素直に謝れる”とか、”食事は基本ごはん粒ひとつ残さず食べきる”とか。

つまりこれは単に、好きなタイプを外面的に設定しているか、内面的に設定しているかの違いだったのだ。相手は外面的なことに重きを置いていて、私は内面的なことにしか重きを置いてなかった。愛に条件を設定しているという点で両者は平等だったのだ。

よりよくパートナーと過ごすために、選択肢は多いに越したことはない

元カレに言われた言葉がある。私がかつて女の子と付き合っていたことに対してこう言ったのだ。

「女の子同士(の恋愛)は別にいいと思うよ。野郎同士よりはさ。野郎同士ってなんか…汚い感じがする」

開いた口が塞がらなかった。こんな考え方だから「元」カレになったことを彼は理解しているのだろうか。いや、そんなことはどうでもいい。これを見た皆さんは私がどこに憤ったかおわかりになるだろうか。…ゲイを差別したから?──正解だ。本当にこれは言語道断だと思う。…「汚くないから」レズを許容したこと?──それも正解。しかしなにより私は、「自分の気持ちで他者の性質を勝手にジャッジメントした/ジャッジメントする思考を持っている」ことに憤ったのだ。

確かに昨今、LGBT(Q)の認識は広まっているし、その為の運動だって活発に起こっている。しかし、決して人々は絶対にLGBT(Q)に肯定的でなくてはいけない、とは思わない。気持ち悪いのなら気持ち悪いと思っていいと思う。例えば爪が長すぎる人のことを「ネイル映えしそうでいいね」と肯定的に捉えるのも「不衛生で気持ち悪い」と捉えるのも個人の自由だ。ただ、それを不用意に口にしたり(特に否定的な意見を)、「許す」「許さない」の領域に持っていくのは駄目だと思う。LGBT(Q)の運動だって、LGBT(Q)が「ありのままで生きる」為のものだ。「マジョリティの許しを乞う」ものではない。そこに上下関係など無いのだ。それをジャッジメントするとは、彼は一体何様のつもりだったのだろうか。

ここまで偉そうに語ってはきたが、私だってこの分野について100%理解している訳ではない。タイには性別が18種類あると聞いたことがあるし、Facebookの性別欄は58種類もあるらしい。それら全てを網羅しているわけではない。恥ずかしながら私は勉強不足だ。結婚という制度についてだって知らないことが多いし、同性婚となればそれはなおさらだ。

かつて同性愛者のことを「生産性が無い」と発言して炎上した議員がいたが、子を成す以外にも生産性を生み出せるのがホモサピエンスたる我々の最大の特徴であり美点だと私は考えている。そもそも異性間でも結婚が人生の必須事項だとは思わない。ただ、パートナーがいる人たちがよりよくパートナーと過ごせるよう、選択肢は多いに越したことはない、と思う。「結婚が認められないから結婚はしない(できない)」のではなく、結婚が法的にできるという前提でする・しないを当事者たちが選択できるのが望ましいのではないのだろうか。

異性愛者というマジョリティが世界の総意となって輝くのではなく、セクシャルマイノリティが目立って輝くのでもなく、性別に関わらず誰もが「自分らしさ」で輝ける。もし私が違和感なく「種の保存」に一役買える日が来るとしたら、そんな世界を自分の子供に見せたい。