わたしは、ここ2年間、本格的に“家事”に取り組みました。
なぜかというと、2年前に子供を妊娠してから、自宅安静などで仕事に行けなくなり、さらに、子供を産んだのも束の間、コロナ禍と育児休業で、家に引きこもりがちになったからです。
家にいるので、必然的に掃除、洗濯、料理、買い物といった“家事”をやる時間が増えました。

わたしは、29年間生きてきて、家事にこんなに時間を割いたことは初めてです。結婚をした27歳まではほとんど実家で暮らしていたし、フルタイムで働いていたので、なかなか本格的に家事に取り組むことはなかったのです。

家事を通して生まれた、これまで気づかなかった感情

そして、本格的に家事に取り組むと、それ以前とは違う感性が自分に身についたなと感じます。それは、“日常の家事からさまざまな感情になる”という感性です。
例えば、洗濯物が乾きそうな日は「やった!」と感じます。
カラッと晴れてる日は、もう、それだけで嬉しいです。枕カバーやシーツ、そしてジーパンなど、とにかく乾きづらそうなものをたくさん洗濯します。
そして、乾くように綺麗に広げて干して、取り込むとき、カラッと乾いていると達成感を感じます。

逆に、洗濯を干したのに乾いていなかったりすると、「家の中に干して、扇風機と除湿器で乾かしたほうがよかったな」と、がっかりしてしまいます。
他にも、冷蔵庫の中の食材が少ないとき、買い物に行かずにうまくメニューが決まると、「わたしって天才!」と、とても嬉しく感じますし、買い物を5000円くらいで収めようと決めて、会計が4990円くらいだとスッキリします。
こんな日常の家事で、嬉しくなったり、がっかりしたりする感性は、家事に本格的に取り組む前のわたしにはありませんでした。

当事者になって気づくこと、それは他者から共感が得られないこと

そして、こんな感性が身に付いたわたしは、夫にもこの感性に共感してもらいたいと思ってしまいます。
例えば、洗濯物が全部乾いてわたしが嬉しいときは、夫にも嬉しくなって欲しいのです。しかし、どうやら夫は「それが、当たり前」とでも思っているようなのです。
夫がそう思うのは、家事が日常のことで“当たり前”のことだからでしょうか?
こんな夫に少しイラついていましたが、よくよく考えてみれば、わたしも実家で暮らしていたときは、そうでした。
母が曇りの日が続いて洗濯物が溜まってイライラしているときも「なんでそんなにイライラするのだろうか」と不思議だったし、余り物のリメイク料理を自慢されたとき、「そんなにすごいかな?」と疑問に思っていました。
そのときのわたしは、母が家事を日常の当たり前のこととして“こなしている”だけだと思っていました。だから、家事で嬉しくなったり悲しくなったりする母の感情がわからなかったのです。
でも今は、母の気持ちが少しはわかる気がします。日常のちょっとした家事でも少しのことで嬉しいし、少しのことで悲しいのです。
きっと、この感性は本格的に家事に取り組んで、初めて感じる感性なのかもしれません。

理解してもらえた、家事の進捗状況で一喜一憂する気持ち

ところで先日、夫がわたしのこの感性に、少し共感してくれる出来事がありました。
それはコロナウィルスの緊急事態宣言で、夫の仕事がしばらくテレワークになったときです。夫は、家にずっといたので、自分で家事をしたり、わたしの家事をしている姿をよく見ていました。
そしたら夫が突然「君がなんで家事のことでイライラしたり、喜んだりするのかわかった気がする」と言ってきたのです。
きっと、わたしの家事が、毎日毎日同じことだけをやる“当たり前”のものでなく、気候や状況に左右されるもので、それに随時対応してやっているということ。だからこそ、うまくいくことも失敗することもあって、うまくいけば嬉しいと感じるし、失敗したらがっかりしてしまうということが、なんとなく伝わったのだと思います。

わたしは家事に本格的に取り組んだこの2年間で、“日常の家事からさまざまな感情になる”という感性が身につきました。
そしてそれと同時に、日常の“家事”をしている人たちは、決して“当たり前”にそれを“こなしている”だけではないのだ、と改めて気づかされたのです。