あのころの私に謝りたい。

あのころ、自分のことを信じてあげられなかった私に。

大学でラクロスを始めた私は、1年生の秋ごろから、部活に行けなくなっていた。

きっかけは、ある先輩とうまくやれなかったから。怪我でしばらく見学をしていて少し遅れをとっていた私の同期にきつく言ったり、私自身、呆れられたような感じを受け取ったりすることがあって、正直、雰囲気が悪く気詰まりだった。

自分のことにも後輩のことにも熱心なのが先輩のいいところだと、頭ではわかっていたけれど、もともと打たれ弱い私の心はついていけなかった。

けれど、それはあくまできっかけにすぎない。考えてみればやめたい理由はたくさん思いついた。朝早く起きて始発で行かなければならないことも、拘束時間が長いことも、それに加えて筋トレや壁打ちをしなければならないことも、同期に比べて自分の技量が劣っていることも、すべて嫌だと思った。部費を払うためにはバイトもしなければならなかったし、当然大学の勉強もある。

みんな同じ条件なのはわかっていたけれど、私の心身は悲鳴をあげた。そのうち部活のことだけではなく、「生きているのがつらい」なんて、そんな悲観的な思考に陥ってしまい、やめることを本格的に検討しつつ、しかしやめると決断できずにいた。

自分の意志で行動できない自分が嫌で、私は自分の意志で部活を辞めた

そんな私に、同期や先輩はたくさん声をかけてくれた。

「もっと一緒にラクロスしたいよ」

「自分のペースでいいよ」

「自主練、一緒にしよう」

「いてくれるだけで意味があるよ」

私は同期や先輩と話す中で、自分がなぜ今、ぎりぎりのところでラクロス部をやめずにいるのかを何度も考えた。

思いあたる一番の理由は、役に立ちたい、みんなの期待に応えたい、ということだった。人数が多いほうが部活を円滑に進められる。成長を楽しみにしてくれる先輩のためにがんばりたい。

スタメンに入りたいとか、私の力で勝ちたいとか、同期の中で1番になりたいとか、そういう思想を私はもともと持ち合わせていなかったみたいだと気が付いた。大学に入ってまで部活をするような人は、こうした強さを持っている人が多かったのもあって、私は周囲との意識の差に息苦しさを覚えていた。

そして、自分の意志で行動できていない自分に、コンプレックスを抱き始めた。

「人のため」、と言えば聞こえはいいけれど、それは結局、責任を他人に押し付けていることに変わりなかった。周りに部活を「させられている」、そんな気持ちがあったのだ。

そんな私が唯一、自分の意志で決められるのが、「やめること」だった。

一緒にやりたい、部活にいてほしい、そういう言葉に頷いて部活を続けても、「自分の意志ではなく他人任せの選択」であるという弱点は克服できない。自分の意志でやめて、自分の意志でできることを探すんだ。

そう思って部活をやめた。

「誰かのため」なんて綺麗な言葉に甘えて自分を信じてあげられなかった

やめてから半年以上が経った今でも、やめたことを後悔するときがある。私の選択は「逃げ」だった。

部活をする自分のための理由を探し出して、それを軸にやり遂げる力が、私にはないと思っていた。理由を模索する日々の辛さから逃げた。

それは、そのときの自分の力を信じてあげられなかったということだ。「自分の意志でできることを探す」なんて、未来の自分には期待していたくせに。

今まで、「誰かのため」という綺麗な言葉に甘えて、自分の意志で選択をしてこなかったツケが回ったのだと思う。

自分の意志を持つ力を、自分で遠ざけて、なくなったと思いこんだ。あるはずだ、と信じてあげることができなかった。

私は、信じてあげられなかった過去の自分に謝りたい。

そして、伝えたい。今私は、ほんの少し自分を信じて、新しい目標に向かって少しずつ進んでいるよ、と。