感性の振れ幅が大きい物事に触れたとき、私という人間が少しわかる気がする。何に対して感性が強く深く動くのか、はっきりと気が付いたのは10代半ばだったけれど、振り返れば幼い頃から知っていた。子どもの頃、「美」という言葉を使わずに感じていた素直な「美」と向き合った結果、今の私がいる。感性を知ることは自分を知ること。
自然豊かなおばあちゃんの家で、私の感性は爆発していた
子どもの頃、ゲームとかアイドルとか、流行のものにはほとんど興味がなかった。もちろん、全く触れなかったわけではない。小学生の頃はモーニング娘。が流行り、テレビを見たり、ブロマイドを買ってみたりした。誰が好きかを考えてもみた。他にも、ポケモンやスーパーマリオのゲームもしていた。しかし、どれも長続きしなかった。友達とワイワイやるのは楽しかったけれど、真剣になることはなかった。それよりも、放課後の校庭開放や公園で遊ぶ方が遥かに真剣で夢中だった。
外遊びが大好きだったが、特に、自然豊かなおばあちゃんの家は格別。東京にはないものがこれでもかというほど溢れていて、私の感性は爆発していた。
「自然って面白い」
田んぼがあって、川があって、虫がたくさんいる。次から次へと知らないものが飛び出してくるものだから、感性は炎上を続けていた。
今では言葉にできるけれど、子どもの頃は全てを感じとっていた
そんな中で、子どもながらに「綺麗」だと感じたものがある。それは、おばあちゃんだ。土いじりで真っ黒になった爪、太陽をたくさん浴びてシミだらけになった肌、どんなに熱いものでも素手で掴めてしまう厚い手の皮。まだ何も知らない小さな私にとって、その姿はもはや芸術作品だった。おばあちゃんに捕まらない虫はいなかった。草木花のことも何でも知っていた。自然に寄り添って生きて、寄り添った結果を隠さないおばあちゃん。私の感性は「自然とともに生きること」に対して、大きく動いていたのだ。
世紀の大発見のように気がついたのは高校生の頃。中学から運動に明け暮れ、本当に好きなものがよくわからなかった。熱く語れるものがない、特技があるわけでもない。友達に影響されやすい多感な時期に、「自然」は私の頭から離れていた。
モヤモヤしたまま大学を考え始め、自分探しをしていた。「好きなものねぇ…」と考え始めたとき、頭の中で奏でる音と蘇る風景があった。
カナカナカナカナ……ひぐらしの鳴く夏の夕方。
サワサワサワ……ぐんぐん育った発色の良い稲を撫でる風の音。
「あ、おばあちゃん家だ」
蘇った風景や音を今では言葉にできるけれど、子どもの頃は全てを感じとっていた。「いいな」とか「好きだな」と思っていることは知らない。ただただ、心が赴くまま立ち止まって見ていたのだ。
「子どもの頃好きだったものって、ずっと好きなんだ」
そう思ったとき、私の感性が溢れる源を知り、積み重ねられてきたものが動き始めた。
感性の源は「自然」。成り行きに抗わない。「ありのまま」は美しい
大学に入ると海に潜り、山を歩き始めていた。必要最低限のもので飾らずに生きる人間以外の生物。必要最低限だから、何か一つでも欠けるとバランスを失ってしまう。そんな、繊細で不安定で歪なものに美しさを感じる。ありのままであることが、こんなにも多様であることに驚かされる。だからこそ、私の感性は自然の中で縦横無尽に歩き回る。
その自然の姿はおばあちゃんに重なる。今でも、太陽の下で一生懸命生きてできたシミを美しいと感じる。だから、30歳を目の前にしても大した化粧はしない。アンチエイジングもしない。自然の成り行きを否定しない。「ありのまま」は美しい。
感性が強く動いたできごとを振り返り従った結果、今の私がいる。私の感性の源は「自然」。私も、おばあちゃんのような芸術作品になりたい。