「謝りたいなら文章なんて書かずに口で言えばいいじゃない」
そんなツッコミが聞こえてきそう。というか、普段の私ならとっくに謝ってる。私は負の感情を持続させることが嫌いなのだ。
でも、ひとつだけ、未だに謝ることができないことがある。きっと、これから先も謝ることができないから、私の心の底に澱として存在し続け、風が心を波打たせる度に思い出すのだ。
私が一番謝りたい相手なのに。どうしてかって?
今からそれを話すから聞いてほしい。
私の目に映る母は「先生」ではなく「お母さん」だった
それは私が中学生の頃のことだった。
私の両親は二人とも先生と呼ばれる立場にいて、だから家に電話がかかってきて「先生いらっしゃいますか?」などと言われると、電話の取り次ぎ係の私は「父でしょうか、母でしょうか」なんて緊張しながらメモを取っていた。
お中元やお歳暮の時期には沢山贈り物が家に届くもんだから、私は「先生って良いなあ」なんて能天気に思っていた。
けれど、母は私が物心ついた時にはすでに、父のようには仕事をしていなかった。
父は平日や休日に関係なく仕事をしていたし、家にいる日も書斎にこもって学術書を読んだり論文を書いていたりしたけれど、同じような学歴の母は、お弁当作りや習い事の送迎を行い、幼い私が寝る前は、本を読み聞かせて寝かしつけてくれた。仕事に行くのは、私が学校に行っている間だけ。
だから私の世界に映る彼女は「先生」ではなく「お母さん」だった。
私の急所を突いた言葉に、とっさに出てしまったひとことだった
その言葉は、学校から帰ってすぐに遊びに行こうとしていた私を母が咎めた時に、口をついて出た。
「まだ習い事の宿題終わってないのに出かけるの。あなたがやりたいと言った習い事なのに、どうして真剣にやらないの」
夕食の支度を行っていた彼女が手を拭きながら、私に詰め寄り、こう続けた。
「将来やりたいことが出来なくなるよ」
その言葉は私の急所だったんだと思う。
当時、私は何者かになりたくて、でも明確な努力の方向性を見つけられなくて、友達に誘われるとすぐに飛び付き、非生産的な遊びに興じていた。カッとなった私は思わず応酬した。
「そっちだって、先生もどきのくせに。人に言える立場かよ」
売り言葉に買い言葉。私が口をつぐむより早く、その言葉は空気を切り裂き彼女の元へ飛んでいった。
自分が残した傷痕を見るのが怖くて、私は制服を翻して玄関を飛び出た。
母の「過去」を知った私は、言葉の重さを思い知ることになった
母がキャリアを捨てざるを得なかったこと。その原因が私だったと知ったのは、それからずいぶん経って私自身が似たような立場になった時だった。
母は当時、在籍していた研究室で初めて大学院まで出たということで、教授から目をかけられていたのだ。
結婚と妊娠をしたことで破門になっていたことを打ち明けられたとき、ようやく私は、あの日なんて愚かなことをしてしまったのだろうと本当に悔いるようになった。
今はカルチャースクールで市井の人に向けて教えているけれど、本当はもっと研究を深めたかったと、軽い調子で言う彼女に、私は何も言えなかった。
私は彼女に訊けなかった。
「私を産んで後悔したことはあった?」
私は、自分が彼女に投げつけた言葉がどれだけ罪深いものだったか、歳を重ねるごとに思い知らされている。
あの日、友達と遊んでいてもちっとも楽しくなくて、夕飯時に静かに帰宅した私を出迎えたのは、誰もいない真っ暗な居間だった。
あれから10年以上が経つ。忘れていて欲しいけれど、絶対彼女は忘れていないであろうことも私はわかっている。あの言葉は我が胸の内に沈み、たまに存在を思い出させようと身じろぎする。
でも、私は娘を産んで、もう一つのことに気がついた。
母は娘に、「自分のせいで親は自分の人生を諦めた」なんて思わせたくないということ。
だから、私は謝れない。能天気な娘の振りをし続ける。
謝りたい。でも謝っても謝りきれない。
これが、愚かな娘の物語。