私のアルバイト先には結婚している女性が多いのだが、雑談をしていると当たり前のように「夫」の存在が出てくる。しかし大学生の私にとって「夫」という言葉はなんだか重さを感じる。「彼氏」ならなんてことないのに。
「夫」と言われると、先輩が他人のモノになってしまったような気がした
いつもと同じ、特別なことは何もないある日、尊敬する先輩から「そういえば入籍することになりました~」と報告を受けた。すぐに「おめでとうございます!」と言うも、なんだか急に先輩が遠い存在になってしまったように感じた。
先輩には長年お付き合いされている男性がいることは知っていた。だが、「彼氏」という存在と「夫」という存在、どちらも同一人物ではあるものの全く違うように思える。最初から私のモノなどではないが、「夫」と言われるとなんだか先輩が他人のモノになってしまったような気がした。(人に対してモノなんて言い方相応しくないのは分かっているが、他に表現のしようがないので比喩表現だと捉えてほしい。)
結婚は、様々な選択がある中の一つの最適解であることは確かだと思う
後日、入籍や挙式の準備の話を楽しそうに話す姿を見ると、他人のモノになったという感覚はアップデートされてパートナーと幸せな日常を送っているのだなと思うようになった。ただ、先輩には先輩の人生があることを痛感する。一緒に働き同じ時間を共有している気でいるが、それはほんの少しの時間であり、私は先輩の人生の極々一部の登場人物でしかない。それに比べ、「夫」という存在は確実に重要人物だ。笑顔で話す「夫」という言葉には「私は結婚していて、大切なパートナーと幸せな人生を歩んでいます」という意味が込められている気がしてならない。
ただ一つの職場にすぎないが、身近な女性の多くが結婚という道を選んで、楽しそうに「夫」のことを話す。結婚するということが一つの幸せの形であると思わないわけにはいかない。結婚は幸せの絶対解ではないにしても、様々な選択がある中の一つの最適解であることは確かだと思う。
自分が結婚という道を選ぶのか、どうしても自分の事とは考えられない
いざ結婚を自分のこととして考えるとどうか。分からないというのが正直なところだ。大学の課題と就活に追われる日々。好きな人も彼氏もいない自分には結婚はあまりにも現実味がない。
大学生の今、私は家族にも友達にも恵まれてまあまあ幸せだと思う。では卒業後、今までと同じように友達と遊んで幸せだと思えるかというと、学生のようにはいかないだろうと妙に冷静に考えてしまう。例えばもし周りの友達が次々と結婚していったら確実に孤独に感じるだろう。素直に祝いたい気持ちはあるが、アルバイト先の先輩の結婚報告に他人のモノになってしまった気がしたのだから、友達となると自分でも怖くなるような感情が沸き起こるかもしれない。では自分が結婚という道を選ぶのかと言われてもどうしても自分の事とは考えられず振り出しに戻ってしまう。
分からないものは分からないから、のんびり自分だけの幸せの最適解を見つけていこうと思う。