東京では、たくさんの電車が走っている。今はコロナで外出を自粛しなければならないけれど、それ以前の世界では、通勤・通学、デートや買い物、友人との食事、などのために多くの人が電車に乗っていた。
もちろん移動手段は電車だけに限らず、徒歩や自転車、バスや自家用車もある。旅行や遠出だったら、船や飛行機も。

地方でふにゃふにゃと通学していた私は、上京後通学2日目から苦痛に

どの手段を用いるにしても、大なり小なりの苦痛が、私に伴う。それは、人の視線だ。人の視線が苦痛で堪らない。怖いわけではない。ただ見ないでほしい、その一心である。
苦痛が大きい順に並べると、以下のようになる。

電車→徒歩→バス→飛行機→自家用車

自転車は今は利用していないため、船は利用したことがないため、省いた。

電車が、特に圧倒的に東京の在来線が、とても苦痛なのである。大学生の頃、私はそれを使って東京の都心に通学していた。片道30分。それは周りの友達に比べれば、近い方だった。
大学に入るまで電車通学をしたことがなく、地方都市でふにゃふにゃと、通学に関してはふにゃふにゃと生きていた私にとって、それはもはや強制的な洗礼だった。
初めの入学式は良かった。入学して浮かれている気持ちと、自分の学びたいことが学べる嬉しさとで、私が高揚していたのもあったから。しかし通学2日目から苦痛が現れ、それは日ごとに増していった。私が使っていた電車は行きが上りで帰りが下りという、ごく一般的なものだったのだけれど、ここで、私の通学を追ってみよう。

気づかないわけがない。人数カウントが不可能になるほどぶつかる視線

まず、私は家を出る。家から最寄り駅までは徒歩で行っていたため、一人でトコトコ歩く。平日の昼前(私は午後からの授業ばかり取っていた)ということもあって、家の近くに人はまばら。いても一人ほど。しかしその一人がもし、いわゆるおじさんだと、チラリと見られる。正確には見ない人もいるけれど、そういう人のほうが稀だ。同じ男性でも、同い年から10歳ほど上(30歳から34歳くらい)までのいわゆる青年なら、見られることのほうが少ない。家を出て数十秒で、すでに一人に見られた。
それでも私は大学に行かねばならぬので、駅に向かってトコトコ歩く。しばらくすると、駅前の栄えている場所に着く。ここには平日の昼間でも人が割といる。チラリ、チラリ。数人の(主に男性の)視線が私にぶつかる。もうここで、人数カウントが不可能になる。
疲れた気持ちで目の前の駅に入り、改札を抜ける。横の改札を抜ける人や、駅構内から改札に向かってくる人の視線が、私に当たる。面白いのが、こういった人が多い場所では、先ほど言ったような青年も、チラッと見る確率が上がるということである。
次に私は電車に乗るわけだが、言わずもがな、来た電車に乗った瞬間、入口近くに人が座っていてそれが男性ならば、大袈裟ではなくガバッと顔を上げて見られる(ことが多い)。私はどうしていいのかわからないのと、何かあったら面倒だから徹底的に気づいていないふりをしているけれど、あれをやっている人は、気づいていないとでも思っているのだろうか?気づかないわけがなかろう。

解決策は未だわからないけど、苦痛から楽しさや喜びに目を向けたい

こうして私はようやく、大学に着くわけである。もちろん、基本的には帰りも同じである。しかしラッシュ時は特には見られない(嬉!!)。

これらの現象は、若い女性でなおかつ、身なりをある程度整えていたら起きるものだと思っているのだけれど、同い年の友達には自意識過剰に思われそうで聞けていない。
もちろん、こういったことに気づかない人や、気づいてもそこまで気にならない人もいるだろう。

最後にこれを言うと、私の苦痛が苦痛と捉えられなく恐れがあるけれど、私は比較的、人から容姿を褒められてきた。けれどそれは、私の苦痛が生じていい理由にはならないし、先ほど言ったように、若い女性で身なりをある程度整えている人には同じようなことが起きていると思う。

解決策は未だにわからない。でも、自分の苦痛を自分で癒やすことはできる。苦痛ではなく楽しさや喜びに目を向けて、私は強く生きていきたいと、切に思う。