おしゃべりが好きだ。特に気の合う友人と、しかも酒が入っているおしゃべりは格別だ。
仕事のことから家庭環境、最近のちょっとした事件。そして必ず出てくるのは、やはり恋愛話。
彼氏がどうだとか好きな人がいるだとか悩んでるだとか悩んでないだとか。のべつもなしに女どもが集まると好き勝手にお話する。きっと男性諸君には目も当てられない光景だろう。だが、それがいい。そこが楽しい。
助言を求めてない相談話にみせかけたのろけ、オチなんてありもしない、それ私ここに必要?壁じゃだめ?壁に話しかけるんじゃダメ?といいたくなるような自問自答。
そんな話を酒と一緒に流し込み笑い合い、イラっとしたりモヤっとする話があっても、またついつい集まってしまう。だってやっぱり楽しいから。
のろけ話を聞いて、人は楽しいものなのだろうか
そんな飲み会もコロナのせいでリモート形式に変わってから、はや数ヶ月。
いつも恋愛話に移行すると、聞き役か画面越しの2次元の推しの話ばかりしていた私も初彼氏ができたので一応友人には報告していた。
とはいえ、特に語ることもないのでいつも通り推しの話をまくし立てていると友人から一言。
「のろけとかないの?」
のろけ……惚気とはなんだろう。それを聞いて、人は楽しいものなのだろうか。
私個人の話をすると、友人ののろけは楽しい。でもそれは話の内容が、というよりものろけを語っている友人の普段見せない表情や私が永遠に知りえないだろう「恋人としての彼女」の姿を伺い知れるから楽しいのであって、見も知らぬ男のことなど当然興味はない。
大方の人は、成功話より失敗話の方が好きなのでは
以前読んだ森見登美彦さんの小説「四畳半神話体系」にこんな一文がある。
「成就した恋ほど語るに値しないものはない」
私はそれまで主人公の男の素っ頓狂な恋愛話を面白おかしく応援していたにも関わらず、この一文を読んで「そうだな」と納得した。確かに、恋の話など成就するまでが一番面白い。
露悪的な言い方をすると、大方の人間は成功話より失敗話の方が好きだろうと思う。成功話で終わるビジネス本が大売れするのも、あの中にたくさんの失敗話が出てくるからだ。
失敗話の中に人はそこに自分を見出す。そして充分感情移入させた後、作者は言うのだ。「でも私はこうして成功した!君もできる!」なるほど、これは売れるだろう。たぶんそうだ。大体のビジネス本はこんな感じなんだと思う。違うかな、違ったら申し訳ないな。実はビジネス本2冊しか読んだことないのだ。
他人の幸せを心から喜べるような作法を身につけたい
のろけは成功話か失敗話かといえば、断然成功話だ。しかもどちらかというと自慢話になりうる。そんな話をどうしてききたいのか。
質問に質問で返す私に友人は言った。「だってどんな恋愛してるか知りたいし。それに他人の幸せそうなとこってなんかいい気分になれるでしょ」
前者はなるほど、よくわかる。だが、後者は少々驚いた。他人の幸せが自分の幸せ、などというクサイ台詞をこうすんなり自然に言える人がいるのだとは。
もちろん私だって他人の幸せを心から喜んだ経験はある。
へそ天で寝る幼い弟、多忙ながらも好きな仕事をして楽しそうないとこ、なんかいい感じの見知らぬ公園の家族。でもこんな風に相手に正直に、「貴方の幸せだと私も幸せ」などと言われると少々照れると共に、感銘を受けた。こんなに素直に、人の話を聞けるというのは、凄いことだと思った。
人の話を穿った見方をせずに素直に聞きたい。たとえばまず、友人の話だけでも。
それがここ最近の私のおしゃべりのお作法だ。