「ありがとう」
痩せ細った父の手を握り、二度その言葉を口にしたのは、良く晴れた正月の日のことだった。
「父親が嫌いなわたし」も立派なアイデンティティと信じていた
思春期って、いつ頃だろう?私の場合は、中学生の頃だったと思う。”感受性”というものが最も鋭かった時期、という意味では。
五感の中で特に鋭かったのは、どうやら聴覚だったようだ。当時、母親や学校の先生から聞いた話、毎週見ていた音楽番組の歌手のトークなどを今でも鮮明に覚えているのだ。
そんな鋭い耳を持った思春期の私には、誰にも言えない大きな悩みがあった。
それは、父親に関することだ。
末っ子の私にとって、母親は神のごとく信じるに値する存在であり、父親はサブキャラクターでしかなかった。それまでは関わりは少ないものの、割と普通に接していた父との関係性が変わったのは、中学二年生の頃だった。
感受性が高まるにつれて、父を嫌いになった。
まず、咀嚼音。父は聞いてびっくりするぐらいのいわゆる「クチャラー」というやつで、食事の度にそれが気になり始めた。同じ食卓を囲む母も何日かに一度「音立てないで」と言うのだが、全く効果がない。もう、40年近くその食べ方なのであれば、よほどのことが無い限り改善はしないだろう。
家族に不満があるなら本人に直接言えばいい。けれども、当時はなぜか、それがどうしてもできなかった。私が「それ不快なんだけど」と言って空気が悪くなることが一番怖かった。
他にも、父を憎むまでのプロセスにはいろいろありすぎて、何だか書いているとしんどくなってくる。
ただ、一つ言えるのは、学校生活にうまく馴染めずいじけていた私は、「父親が嫌いなわたし」というのも立派なアイデンティティだと信じてやまなかった、ということだ。数少ない友達には「お父さんが嫌い」と堂々と話していた。そんな自分でいいと思っていた。いつの間にか、父と私の間には、コミュニケーションが存在しなくなった。
「普通だったら」が頭の中を支配した。姉の懇願で逃げられなくなった
月日は流れ、社会人になった頃、父が病気になった。手術をしたが再発し、どうやら良くない状況らしい。
中学二年生の頃から、目どころか顔を合わせて会話をしたことが無かった為、父に関する情報は全て母を介して届いていた。家族という血縁関係がありながらも、まるで牛乳の膜のようにごく薄い関係性しか持てなかった親子。それが父と私だった。
父がとうとう危ない、という時、私はまだ一度も病院へ見舞いにも行っていなかった。そんな折り、親戚から「会いにいかなくていいのか?」と厳しい口調で尋ねられ、どうしたらよいのか分からなくて、電話口で子供みたいにわんわん泣いてしまった。
「もう、会わないって決めたから」
嗚咽に混じって振り絞った言葉は、それだった。今さら、親子だからって、娘だからって、お父さんだからって、10年以上も関わりのなかった人とどう接すればいいの。どんな顔で、どんな言葉を向けるの。もう死にゆく人なのだから、励ますのもおかしいし、何より彼の目を見て話すなんて無理だ。怖い。そもそも、向こうだって私の顔なんて絶対見たくないはずだ。本気でそう思った。頭の中がぐるぐるした。
「普通だったら」
頭に浮かんでくる言葉には、冒頭に全てその前置きがついていた。
「普通だったら、お見舞いにいくよね」
「普通だったら、今までの関係を持とうとしなかったことを謝って許してもらいにいくよね」
「普通だったら、そもそも、こんな関係性の親子なんていないよね」
「私って、おかしいよね」
毎日、毎日そんな言葉たちが脳内を駆け巡り、なぜか胸ではなく、お腹がきりきりと痛かった。
「普通だったら」
「会いにいかなければいけないのではないか」
そう、頭では理解している。けれども、「会いにいく」という決意はどうやってもできない。母にも、姉にも、相談できなかった。父と対面するのが、恐ろしかった。
ある日、姉から「一緒に見舞いに行って欲しい。どうしても。何も話さなくていいから。いるだけでいいから」と、懇願された。もう、逃げる道はどこにもなかった。「・・・わかった」そう返事をした。
勇気を振り絞り、顔を上げた。10年以上ぶりに、父と目が合った
正月。バカみたいに晴れた空が広がっていた。駅で姉と待ち合わせてバスで病院へ向かう。「ドキドキ」なんて可愛らしい音ではなく「ずうううん」という地鳴りのようなものが胸の中に鳴り響いていた。要するに、死ぬほど行きたくなかった。
重い足を前に出し、病院のエレベーターから降りる。古ぼけた病室に入ると、そこには見慣れない痩せ細った父がベッドの上にいた。
父はおそらく、私が来たことに驚いていた。私だって、なぜこんなところにいるのか分からない。病院という静けさが、緊張感を高める。
姉と横にならんでベッドの傍に腰掛けた。何も話さなくていいとは言われていたが、この状況ではそういう訳にはいかなさそうだ。勇気を振り絞り、顔を上げて父の方を向いた。
10年以上ぶりに、父と目が合った。
痩せて、メガネもかけていない、ずいぶん変わってしまった父に「娘として」最期に何を話せばいいかなんて、どの学校でも習わなかった。正しい答えが分からなかった。30分程世間話をして(そのほとんどが父と姉の会話だったが)帰ろうとなった時、姉が父と握手をしていた。どうやら、二人の決まったあいさつらしい。その瞬間、とっさに、私は手を差し出して父の手を握った。父の目を見て「ありがとう」という言葉を二回、口にした。
あれほど嫌いで触れたくもなかった父の手に、触れてしまった。
自分自身で、驚いていた。病院を後にしてからも、手のひらに不思議な感覚が残った。
でも、あの瞬間を逃していたら、私はきっと生涯、何かをずっと後悔し続けただろう。
その日から一ヶ月が経った頃、父の訃報が届いた。
いくら考えても悩んでも、父との関係に対する正しい答えは見つからなかったし、今でもどうすれば正しかったのかは分からない。まだ、とても消化なんてできていないし、これからもずっと心の奥底に黒く残渣のようにこびりついて残るのだろう。それは、どうしようもないことだ。
家族とは、解けない難問だ。それぞれの家族に問題があり、その「解」が必ずしもセットであるとは限らない。ただ、私が咄嗟に父の手を握ったのは、目には見えない家族という切っても切れない繋がりがどうしてもそうさせたのかもしれない。なぜならあの日、握った父の手のひらは、とても温かかったのだ。