「どうして結婚したの?」と訊かれても、わたしは答えられない。答えられなくていいと思っている。「どうして」結婚をするのかなんて、理由がいるのだろうか。理由はあるのだろうか。理由の必要な結婚は、その理由がなくなったとき、ふたりを不幸にしてしまう気がしてならない。
ふたりで生きているというこのささやかな幸せが続けばそれでいい
令和最初の春、わたしは理由なく結婚した。
その昔、結婚の理由は、繁栄と繁殖だった。かつて、男はよい家柄の女を妻として迎えることが出世の条件だった。かつて、幸せな家族像には元気な子どもたちがいて、名字を残すために男児がありがたがられた時代があった。こうした「理由ある結婚の時代」は、何かの手違いで一歩を踏み外すと、その結婚に関わった誰もが不幸になる、そんな怖い時代だったと思う。そのことを多くの人が薄々どこかで感じていたから、時代が進むにつれて、結婚の理由や目的というものが徐々に薄まってきたのではないだろうか。
わたしたちは、結婚をしてもしなくてもよい二人であった。名字を残したいという気概も、子どもを持ちたいという思いもない。どちらかが扶養に入る予定も、残すほどの遺産もない。繁栄も繁殖も望まず、ふたりがふたりで生きているというこのささやかな幸せが続けば、それだけでいいと思っている。
それぞれ幸せであろうと決めた「から」結婚をした
もっともらしい理由、たとえば「家族になりたかった」とか「帰る場所がほしかった」とか、それらも結局、「結婚」でなくては叶えられないものではない。同棲やルームシェアで十分である。結婚にしか叶えられない幸せなど、おそらく存在しない。
だから、わたしたちがいま幸せであるのは、「結婚をしたから」ではなく、結婚をする前に「互いに幸せであろう」と自分に約束をしたからだと思う。
わたしたちは、結婚をした「から」幸せなのではない。ふたりともがそれぞれ幸せであろうと決めた「から」結婚をしてもよかったのだ。結婚をした「から」愛する人の人生に責任を負うのではない。愛する人の人生に責任を負うと自分に約束した「から」結婚をしてもよかったのだ。
幸せであれ。ただただ、幸せであれ
幸せでありたいこと、愛する人の人生に責任を負いたいこと、それらに理由なんてないと、誰もがわかるはずだ。わたしたちは、ただ内側から湧き出る「そうありたい」に従っただけである。
もしいま、「どうして結婚をするのか」という悩みを抱えている人がいたら、「したいからする」で十分ではないかと言いたい。「では結婚とは何なのか」と問われれば、愛し合うふたりがふたりで暮らしを編み続けることに、ただそういう名前がついているだけだ、と返すだろう。そんなのは「どこからが”付き合ってる”なの?」と同じくらい、どうでもいいことだと思う。
幸せであれ。ただただ、幸せであれ。したいように、すればいい。繁殖も繁栄も、望まなくていい。わたしたちはいつだって、そう生きることが許されている。