いつからだろう?
一生懸命に働いている人を綺麗だと思うようになった。
綺麗なのは、彼らが懸命だからだ
私のおばあちゃんは、毎朝6時前には起きて二層式の洗濯機を回している。
おじいちゃんの畑で採れた野菜を洗って、細かく切ってサラダに。ぬか漬けのぬかを洗い落として包丁で切る。白いお米を炊いて、お味噌汁と目玉焼きを作って、納豆をお皿に盛りつけて。仏様に炊き立てのご飯をお供えして、テーブルを拭いて、お皿を並べて、やっと朝食だ。あっという間に食べ終えると、温かい日本茶を淹れてくれる。またお皿を下げて洗って、ちょうど脱水の終わった洗濯物を2階のベランダに干す。
小さい頃は夏休みに帰省しても、おばあちゃん早く遊んでくれないかな、なんて思っていたけれど、大きくなるにつれてその気持ちも変わった。スーパーの買い物に一緒に出掛けても、「重たいから持たんでええで」と言ってくるおばあちゃんに、どうしてそんなこと言うんだろう?と疑問を越えた感動と、申し訳なさと、どこまで行ってもこの人に追いつくことが出来ないんじゃないかという焦りと、とにかく色々な感情が沸いた。
大学時代にアルバイト先で出会ったベトナム人の留学生、クインさんも同じだ。
東京駅近くのビジネスホテルの朝食会場で早朝バイトをしていたことがあったが、そこの厨房で働いていた彼女は月~土の朝5時~11時まで、日本語学校の授業が始まる前にシフトに入っていた。日本語はまだそこまで話せなかったが、シフトが被った時には少し会話もした。夜8時頃帰宅して、自炊、お風呂、深夜0時まで日本語の勉強をして就寝。翌朝4時には起きて、4時半の中央線始発でアルバイト。一度も遅刻も欠勤もしなかった。ある日店長に、「フルーツの切り方が上手いね」なんて包丁さばきを褒められていたけど、少し微笑むくらいで黙々と切り続けていた彼女の姿が今でも印象に残っている。
そんな人達を見て、私は憧れた。そして純粋に、綺麗だな、と思った。
綺麗なのは、彼らが懸命だからだ。
懸命に働いている人は強くてたくましい
おばあちゃんは福島出身で、京都出身のおじいちゃんとお見合い結婚をしてから、言葉や文化・習慣の違いに随分苦労したらしい。二人で話した時には、「何度も帰りたいと思ったことがあったで」と教えてくれた。それでも、おじいちゃんのために、そして家庭を守るために、一度も逃げ出さずに毎日働いていた。二人の息子を育てあげ(一人は私のお父さんだ)、今も病気一つせずに生きている。
ベトナム人の彼女だって、異国の地で外国語も勉強中なのに。アルバイトを見つけるだけで十分大変なはずなのに。学費を自分で稼ぐため、そして日本語を学ぶために毎日必死だった。
懸命に働いている人は強くてたくましい。
彼らの後ろ姿を見ていると、入りたくても入りこめないような、手が届かないような、私をそんな気持ちにさせる。彼らの姿勢が綺麗で美しい。そして、私の知らない大切なものがその奥にあるんだと思うと、うらやましい。
おばあちゃんの大きくて太いシワの刻まれてた手が、すっかり板についた関西弁が、クインさんの、前だけを見る鋭い視線が、とてつもなく自分も欲しくなる。
私も誰かにとって憧れの的になりたい
私が働く理由は、懸命に働く人たちに憧れているからだ。
そして、私も誰かにとってそんな存在でありたい。憧れの的でありたい。
そう思っているから働いているんだと思う。
それは、職種でも地位でも給料でもなくて。
その人の奥に広がる世界に、どれだけ必死に守りたい大切なものがあるかだ。
この世の中、「働くこと」を一語で表すなら、多くの人たちが「辛い」「疲れる」「つまらない」を選びそうな気がする。けれど、いつかみんなの口から「強い」「美しい」「綺麗」のような言葉が出てきたら嬉しい。むしろ、私がそう思わせる一因であれたらもっといい。
そんな希望を持って、今日も働く。