22歳。少しずつ、少しずつ、「結婚」ということばが現実のものとして姿を現し始めていると感じる。

恋人と長く交際を続けている友人と交わす「結婚とか考えているの?」という会話には、中学時代の「彼と結婚したい~!」というような軽やかさや幻想の色は薄れ、“人生の話”としての重さを感じるようになってきた。話相手が2、3歳上の先輩ともなれば、その実感はより強くなる。

しかし私にとっては、まだまだ現実味のない話だ。
あまり結婚願望がない。それどころか、今は恋人を欲しいという気持ちや、恋をしたいという願望もない。

そんな自分は人として何かが欠けているのではないかと、心のどこかで思ってしまうときがある。

幸せの定義を一様にしない考え方が少しずつ一般的になってきている。それは素晴らしいことだ。まだ完全ではないとしても、そのような時代を生きられて幸運だと思う。

少しずつ結婚を身近に感じるようになってきたここ数年、そして、この時代を生きるからこそ、どうしても変えたい自分の考え方がある。

私も思っていた。「あの先生が結婚なんて、できるわけない」と

私は高校時代、担任の先生が苦手だった。教師として問題があるというわけではなかったけれど、性格が合わなかった。そう感じている生徒は少なくなかったように思う。先生とクラスメイトの間には、厚めの壁があった。

先生は母と同じくらいの年齢で、女性。見た目でわかる情報以外は、子供がいるのかも、結婚しているのかも、本当の年齢さえ、誰も知らなかった。知らなければいけない情報ではないのだけれど、そういう他愛もない雑談を交わすような距離感ではなかった、ということだ。

そんな雰囲気のクラスだったから、友達との話題が先生の悪口になるときもあった。みんなどこか面白半分に、実はもう成人した子供いるらしいよ、いや、ずっと独身って聞いたよ? なんて、不確かな情報をネタに笑い合う。

そして私も思っていた。

「あの先生が結婚なんて、できるわけない」と。

担任の先生に限らない。例えば、お店で店員によくない態度をとっている父親とその家族を見たりすると、「あんな人でも結婚できるんだな」と思ってしまう。

「結婚している=人間的な魅力がある」という考え方が心の片隅に眠っている

それは私の頭のなかで、人としての魅力があること、常識をもった大人であることが、結婚していることと同義になっている証拠だった。ふとしたときに、今の恋人のいない自分が何かおかしいのではないかと不安になるのも、それが理由なのだろう。
夢があって、仕事を頑張りたいから、「結婚しない人」になるのは悪くない。ただ「結婚できない人」にだけはなりたくないと、どこかで考えてしまっている。

恋人の有無が人間性を示すとか、結婚していることが何らかのステータスになるなんて、そんなわけはないと頭では理解している。実際に未婚でも素敵な人はたくさんいるだろうし、その逆もあるだろう。そもそも、人としての魅力は「未婚/既婚」で測れるものではない。

わかっているつもりなのに、「結婚している=人間的な魅力がある」という考え方が心の片隅に、眠っているのだ。「売れ残り」なんて表現は馬鹿げていると思う感情と、そうはなりたくないと思う感情、つまり、その表現をどこかで自分も認めてしまっている感情が同居している。

他人を、結婚の軸で推し量るような考え方はしたくない

これを読んでくれているあなたは、どうなのだろう。なんてくだらない考え方だと思っただろうか。それとも、思い当たる節があっただろうか。

私はこの考え方を変えたい。

自分の足で生きていける、芯のある大人の女性になりたい。いずれ結婚するにせよ、しないにせよ、私は私だと自信をもって言える人でありたい。何よりも、他人を、結婚の軸で推しはかるような考え方はしたくない。

自戒を込めて投稿する。高校時代の自分から、少しずつでも変わっていこう。