26歳の夏、私は結婚した。

 ケッコン。ツマ。オット。
結婚して約半年が経った今でも、これらの言葉の響きには慣れないし、結婚したからと言って、自分自身が大きく変化したという自覚もない。その証拠に私は今だに夫のことを苗字で呼んでいる。
 彼とお付き合いを始めるまで、「結婚」というのはものすごく遠くにあって、複雑で、自分とはあまり縁がなさそうなものだと思っていた。

 学生時代にほとんどお付き合いをした経験がなかった私は、大学を卒業した途端、各方面から「彼氏もいないなんて可哀想」「一生一人なんてどうするの?」などと様々なお言葉をいただいた。これらのありがたいお言葉をいただく度に、私はこう答えていた。
「結婚なんてしなくたって幸せになれるし!」
 実際、令和の時代では結婚は「女性にとっての幸せ」の前提条件ではない。私は一人でも十分に幸せに生きていける自信があった。

結婚のメリットはひとつも感じたことがないのに、「奴」が現れて・・・

 むしろ結婚に対してのメリットはひとつも感じられなかった。
どれだけ頑張っていても、お金も家も時間も半分半分。結婚によってあらゆるライフイベントが自分の人生に投入され、常に自分以外のことを考えながら、まだ恐らく半分も終えていない自分の人生を設計する。
 これのどこが幸せなのだろうか?身に着けるだけでテンションの上がるようなワンピースを買った時や、一人で旅をしてみたい国を考える時のほうがよっぽど幸せに違いない。
私のささやかな幸せを失う代わりに、不安定で不確定でまるでギャンブルのような結婚を焦ってしなくちゃならないの?
 結婚なんてしなくていいもーーーーーん。

 ところが「奴」は現れたのである。

「奴」改め彼は、従来の私の恋愛対象に求める無意識の条件からはほとんど外れていた。要するに今まで恋をした人の誰とも共通点はなかった。にもかかわらず、結果的には私の恋愛史上初めて2年以上付き合いが続き、私たちは結婚することになった。

 付き合い始めて数ヶ月経った頃、私は彼に言った。
「私、一人でどこかに行ったりするのが好きなの。将来もしかしたら海外に住みたくなっちゃうかもしれない。仕事だっていろんなことをやってみたいんだよね。」
もちろん本心だったが、私の「幸せ」は将来何があっても絶対に譲らないからね?いいのね?と彼を試す意味のほうが大きかった。
例えば、もし仮に、将来を共にしたいとあなたが思っていたとしてもね!!
 
自分の縄張りを守る動物のように、恋人を前にして警戒心を剥き出しにしていた私に彼は「いいんじゃない」と言った。
彼は海外へ行くことに慣れていなく、私とは正反対の超インドア派である。きっと「この女には付いていけない」と諦められてしまうだろうと思っていた私は、自分の警戒心がしゅるしゅると萎んでいくのを感じた。
「え、いいの?」
「いや別にいいよ。空港まで送りに行くよ。海外に住むなら付いていくし。」
 まじか。予想外の言葉だった。驚くほど自然に、彼は私の幸せを尊重した。
 そのままで、何も変えなくていいと。
「そう……」

結婚は怖れだったけれど、彼は搾取しない。何も引き渡さなくていい

 彼は他にも私のいろんなところを受け止めてくれた。
そうして彼と過ごす時間が増えるうちに、気づいたことがあった。

この人は私を搾取しない。搾取しないのだ。だから、私は、心配しなくていいのだ。

 結婚しなければと焦っている人が多い。結婚なんてしなくても、と考える人もいる。
「結婚」は、ある人にとっては人生の頂点であり、華々しい幸福の象徴である。
 でも、また別のある人にとっては口にしてはいけない禁断の2文字であり、目が合ってしまえばどこまでも追いかけてくる怪物でもあるのだ。

 私にとって、結婚は恐れだった。

 自分自身を搾取されてしまう恐れ。
 ここまで積み上げてきたものを失う恐れ。
結婚というのは、自分の人生をそのまま誰かに引き渡さないといけないものだと思っていた。

 結婚を恐れていた私へこう言いたい。
もちろん結婚をしたことで選択が難しくなることもたくさんある。
ここまで単に運が良かったのかもしれないし、これから何があるかなんてわからない。
でも、それでも、きっと結婚なんてしなきゃよかったとは思わない。

 どうか、結婚という怪物を恐れるあまり、彼を見失わないで。
彼はあなたをまっすぐ見てくれているから。