今年も代わり映えのしない一年が始まったと思っていた年明け。
私にその言葉は酷く重くのしかかった。

「わたし、山に入ろうと思うんだよね」
もう足掛け10年の付き合いになる友人は開口一番そう言った。

つかず離れずの距離感。学生時代のままつるんでいられると思っていた

私と友人の出会いは大学入学初日の学部懇親会だった。
新入生同士だった私達は、当時ハマっていたアニメのキーホルダーが彼女の鞄に付いていたことをきっかけに仲良くなった。
教室のメインストリームにおもねるよりも、彼女といる方が気楽で、人生の夏休みと呼ばれる4年間。私は彼女とかなりの時間を過ごした。あっという間の4年間だった。
最終学年になると、大抵の学生は授業もなくなり周りは就活、私は養成所と同期達ともなかなか顔を合わせなくなる。しかし、彼女とは卒業してからも変わらずつかず離れずの距離感で交流を続けていた。

社会に出て、役者稼業に邁進して学生収入をスライドしただけの私と違い、会社勤めを始めた彼女は紆余曲折はありつつも社会人の収入を武器に趣味に邁進していた。
元々好奇心が強く、独特の感性とフットワークの軽さを持っていた彼女の周りには楽しいことが沢山あった。

引きこもり気質で、役者には金がかかるを言い訳にジリ貧生活をしていた私とは雲泥の差。
「しろちゃん好きそうだから一緒に行こうよ!」
と連れ出してくれるところはいつも独特で、その場を全力で楽しんでいる人ばかりでとてもキラキラしていた。

朝に弱くて時間にルーズ。社会生活には難ありだったけれど、そこが、真面目だけが取り柄の私と絶妙に嵌ったんだと思う。
子供心を忘れない彼女といつまでも学生時代のままつるんでいられるものだと、そう何の疑いもなく思っていた。

世の中全てに恨み言を吐いていたのが嘘みたいな、生き生きした声

年末最後の休みの日だった。
明日から5連勤が確定している奮励に、一人で日帰り温泉を堪能した帰り、通話していいかと、彼女からLINEが入った。 
既に時刻は日付が変わる少し前だったが彼女は外にいるらしかった。通話を繋ぐなり、
『もう辞めてやるっ!!!』と、息巻く彼女の大声。

昨年から勤めている金融系のベンチャー企業が、コロナを機に業績が悪化。
給与が減額され、社内の空気も会社の傾きに比例して悪くなる。なのに増える一方の残業。
先日遊んだ時も、毎日日付が変わるころまで残業している…と愚痴をこぼしていた。
仕事納めの今日も、つい先程まで仕事をしていたらしい。しかも、仕事を納める、というその時に告げられたらしい。

今月の残業代が、一円もつかないという事を。連日の残業、蓄積する疲労・ストレス。それらを薬を飲んででも保たせたのは、ひとえに残業代がつくと思ったからだったのに!
と、彼女の愚痴は続いた。残業代がつかない説明も受けていないし、言ってくれればもう辞めていたのに!という彼女は仕事始めに辞表を提出する!と息巻いていた。
転職が多い彼女のこと。ああ、いつもの光景だなあと、その時の私は思っていた。

そして年明け、私は年始の挨拶がてら彼女の離職の進捗をたずねる連絡をした。
その電話先で、彼女はあっけらかんと言ったのだ。
『わたし、山に入ろうと思うんだよね』
と。
はい?予想の斜め上。私の頭の中では山小屋でマグ片手に髭面の彼女が手を振っている。
頭の中、「?」マークだらけの私を置いてけぼりに、彼女の話は淀みなく進む。

田舎に帰れば今よりも安い家賃で今より広い家に住める。なんなら戸建てだって夢じゃ無い。実家に近い場所で定時で上がれるところを探して、私、趣味を大事にしたいんだよね。で、私、昔から狩猟に憧れがあって、働きながら狩猟免許取ろうと思うんだ。
数日前に、世の中全てに恨み言を吐いていたのが嘘みたいに生き生きした声だった。
理解が追いつかない私の空返事をどうとったのか、彼女は続けた。

最初はね、東京でまた転職活動しようと思ってたんだよ。色々転職サイト見たりしてさ。
でも、正月に帰省して、地元で働く兄弟の近況とか聞いてるうちに思ったんだよね。
これ、東京に拘る必要あるのかな?って。

私が東京に居続けた理由って、友達と遊んだりご飯したりしたかったからだけど、コロナの今、それも出来ないじゃない?それに私、もう29歳になるんだよね。
今回の転職はいいけど、次の転職が大変そうだな、と思って。そう思ったら、この後私、どういう風に生きていきたいかを考えるようになった。毎日毎日深夜まで残業で、それも全部お金の為。でもそれで体調崩して、やりたいこともやれないの本末転倒だな、って。
私は趣味に生きたくて、だったら定時で上がれる仕事について前から興味あったこと初めて見よう!って思ったんだよね。
だから私、田舎に帰って、山に入るよ。

彼女だけは、10年変わらず学生テンションで付き合ってくれたのに

と、とても晴れやかな声。
彼女が活き活きと喋れば喋るほど、冷水を浴びせられた様になる。
『わたし、もう29歳になるんだよね』
それは同時に、彼女の同級生である私も、もう29歳ということだ。
それは、わかっている。

でも、彼女からその台詞を聞くと私は思っていなかった。役者になると夢を抱いて東京に出て来た。学生時代の友人達は既に社会人6年目。会社でもある程度の地位につき、結婚した子も増え、たまに会っても話が合わないなと思うことが増えた。単純に、唯のアルバイターの自分を周りと比較して勝手に肩身が狭くなっているだけだが、価値観の違いを多々発見する。そんな中で、彼女だけは、彼女だけは、10年変わらず学生テンションのままで私に付き合ってくれていた。先月だってファミレスで、馬鹿みたいなことで何時間も笑っていた。

その彼女が、もう、29歳だと言う。
現実に目を向け、自分の舵を取って、この場から去って行こうとしている。

友よ、お願い、行かないで。
私をぬるま湯に置いていかないで。
現実への扉がある事を教えないで。

何も見ない様にして、私はぬるま湯でたった一人、心地いい悪夢を見続けるのだろうか…。