「そろそろ何も考えずに恋愛してられないじゃん?」
「年齢によっては今の彼氏と結婚考えてたかも」
「彼氏は絶対東京がいいって言うんだけど、私は地元がいいんだよね」

小学校からの幼馴染たちとの会話に、こんなセリフが出てくるようになった。ここだけ見たら、何歳の会話だと思うだろうか?中高生の頃の私が「20代中頃~後半?」と眉を顰めて答えるのが目に浮かぶ。残念ながら違う、私たちは君とまだそう年齢の離れていない、21歳だ。

結婚に対して虚勢を張った10代半ばの産物

もともと結婚願望のある友人たちだ。結婚や出産を前提にした彼女たちの人生プランは何度も会話に登場してきた。でもここまで現実味を帯びた発言が見られるようになったのはつい最近の話で、私はかなり驚いてしまった。

おそらく結婚願望があれば、21歳でこの発言も何ら不思議ではないのだと思う。いま恋人がいるにしろいないにしろ、結婚には時間を要する。親の同居やどちらの生活圏に身を置くのかなど、考えなければならないことはいっぱいで、それらの条件が合う人を選ぶに越したことはない。楽しい!好き!だけの恋愛で満足していられる段階では、とっくになくなっていたようだ。

私がなぜこうもさっきから、「まあ自分はそのつもりはないけど」と言わんばかりの書き方をしているかというと、その通り私に結婚願望がないからだ。何ならつい最近まで、結婚を忌み嫌っていた。原因は両親の不仲と離婚、父の結婚後の人格豹変、隷属にしか見えない母の専業主婦業。結婚という言葉自体にアレルギーみたいな反応を示していた。夫も子供もいらない、時々友人に会える人生ならそれでいいと思った。

それだけならまだしも、結婚や出産を人生プランに組み込んでいる友人、特に専業主婦を理想とする友人に対しても、いい感情を抱いていなかった。夫や子供に隷属する人生を自ら選ぶなんて、と内心軽蔑すらしていたように思う。

でも大学に入って、同じように結婚をする気がない人たちがなぜか周りにたくさんいたことで、むしろ結婚することを一つの選択肢として受け入れられるようになった。おそらく結婚アレルギーは、自分の不幸に耐えられなくて、溺れて、何とか息をするために「私はそっちに行けば不幸だとわかっている、そんな選択はしない」と虚勢を張った10代半ばの産物だったのではないかと思う。他にも同じような人がいると知って初めて、「結婚しない」ことは絶対ではなく、「結婚する」ことと同様に選択肢の一つだと気づけた。

結婚という契りへの恐怖感と定期的な自問

だが結婚アレルギーが治ったかというと、正直まだ完治はしていない。私自身が「うっかり」結婚して、出産なんてしてしまって、それで夫となった人が父と同じような豹変でもしたらどうしたらいいんだろう。母と同じ「過ち」を犯した自分が許せなさそうだし、正直子どもも大事にできるのかわからない。しなきゃいいのに時折そんな想像をして、ものすごい不安に襲われると同時に、ホッとしている。無意識のうちに、結婚しない決意が揺らいでいないか、自分自身に試している。

友人が母と同じような目にあったら、というのもものすごく怖い。私なら止められたのに、と後悔するような気がしてならない。だからいまだに結婚のある人生プランには肯定的な反応が示せなくて、かといって否定はしたくないので、友人から見たらただただ浅い相槌だけ打つロボットみたいになっているかもしれない。

人それぞれの結婚と幸せを願って

一方で私は、彼女たちの生き方をきちんと尊重したい。私が結婚を絶対に嫌だと言って、いちいち否定的な態度をとっていたアレルギー全盛期から、彼女たちは変わらず友人でいてくれた。私に何があったかも分かっていて、ただ受け止めてくれた。

それを知っている彼女たちだからこそ、いまだに気を遣わせているところもあるかもしれない。だから私はこの場を借りてきちんと宣言したい。あなたたちが幸せでさえいられて、それを望むのなら、ぜひ結婚してほしい。私はいつだって応援している。結婚で悲しい辛い思いをしているあなたたちを見たくないというのは、私のエゴで介入だ。もしそうなってもきっとあなたたちはそれを乗り越える強さも、それを避ける潔さも持っているし、その時はまた私も全力でそばにいる。どんな選択でも、どうか幸せであってほしい。ずっと願っている。