「いしかわさらの母ですが、皆さん私のことは旧姓の○○で呼んでください」
私の母親は、小学校のPTAの会合でも旧姓を名乗っていた。

母親も、戸籍上は父と同じ石川姓。しかし、母親は旧姓を使って日常を過ごしていた。仕事上の理由で、というわけではない。結婚と同時に、母は仕事を辞めて専業主婦になっていたから。
ママ友やPTAなど保護者同士のつながりが多い時期も旧姓で通し、子ども(=私と弟)が小学校に上がったタイミングでパートを始めたが、そこでも旧姓で働いている。

夫婦別姓が認められていない中の苦肉の策として「日常は旧姓で通す」

母にとって、苗字も含めた名前はアイデンティティだった。
夫と妻どちらにとっても、生まれてからその名前で生きてきているのに、なぜ片方がもう一方の姓に変えなければいけないのか。
「妻が夫の姓に変えることが普通」という社会的通念も、疑問を超えて憤りを感じているような人だ。もちろん、結婚時に父が母の姓に変えることも考えたようだが、父が長男であり母は弟がいること、父はフリーランスで働いているため姓が変わることは仕事に支障をきたすリスクがあること、そして事実婚の場合は税金などのデメリットが多いなど、諸々を考慮して、母は入籍し石川姓になった。
夫婦別姓が認められていない中での苦肉の策で、「日常は旧姓で通す」という生き方をしていた。

選択的夫婦別姓が「子どもに悪影響」「家族の絆が壊れる」は思わない

仕事上で旧姓を使う女性は多いだろうが、ここまで徹底している人は少ないのではないだろうか(母の友人に中学校の先生をしている方がいるが、教師人生の中で、子どもと違う旧姓を貫いている母親は見たことがないと言っていたそうだ)。
よく、選択的夫婦別姓の反対意見として「子どもに悪影響」「家族の絆が壊れる」といった声が聞かれるが、この家庭環境で育ってきた者として言わせてほしい。
ちゃんちゃらおかしい!

「なんでお母さん、苗字が違うの?」と友達に聞かれることも一度か二度あったが、何と返したか覚えていない程度のことだった。
その友達も屈託なく質問しただけで、いじめる理由になどならなかった(そもそも、子どもにとって親の苗字なんてどうでもいいことで、友達との交換日記や、うっすら恋心を抱く相手のことを考える方が忙しい)。

家族の絆が云々という意見も見るが、苗字が違っても会話をするし、晩ごはんは必ず4人そろって食べた。間違ったことをしたら諭されたし、嬉しいことは一緒に喜んでくれた。
家族が家族であることは、苗字が同じとか違うとかは関係なく、その家族の中での関係性でしかないと思う。
結婚も、“苗字が同じになるからずっと一緒に幸せでいられる”なんてことは幻想だろう。どうしても違うところはあって、すり合わせを試みながら、お互いを尊重し合って生活を営む。
そういった様々な家庭の中に、“苗字が違う”という人同士がいることに何の問題があるだろう?

制度や偏見にしばられず、それぞれの幸せを認められる社会に

…こんなことまで書くと「ほら見たことか!」と言う人もいるかもしれないが、実は一昨年、両親は離婚をしている(しかし、「夫婦の3組に1組が離婚している」と言われる中で、同姓の夫婦もたくさん離婚しているのだから、特に珍しくもない)。
もちろん理由は別姓だったからではない。仲たがいで別れたわけでもないので、今でも趣味のライブ鑑賞の会場で一緒になったり、他愛のないことで連絡を取ったりしている。
この離婚も、父と母お互いのために必要な選択だったんだろうなと見ている。子どもとして、両親には幸せに生きてほしいし、それが別々に生きるという道だったなら何も反対はない。

結婚や夫婦、家族について、日本は時代錯誤な制度や偏見が多すぎると思う。その人の幸せは、こうでなくてはいけない、という型が生むものではなく、その人たちでつくっていくものだ。
同姓でも別姓でも、同性同士でも、離婚しても、あるいは一人でだって、幸せに暮らすことは可能だ。
その存在を否定する、他人の幸せの形を無理やり変えようとする制度や偏見に意味はあるのだろうか。

結婚しても旧姓を名乗り、生き生きと自分の人生を歩む母は、私の目に素敵に映った。
いろんな結婚の形、個人の幸せの形が認められるようになって、素敵に生きる人が増えたらいいなぁと思う。