年末に大掃除をしていたら、引き出しの奥底から指輪が出てきた。
それは千円ほどで買えてしまう、雑貨屋に売っているような軽くて、細くて、おもちゃのような指輪。でも当時の私にはとてつもなく重くて、この歳になるまで取っておいてしまうほど意味のある物だったのは確かだ。そんな指輪を贈ってくれた彼女に、私はずっと謝りたいと思っている。
私達はグループ内外からも認められる、いわゆる親友だった
高校一年生の頃から仲良くしていたグループは、良くも悪くも普通の女子が集まった四、五人のグループだった。
クラスの中で目立つ方でもなければ、特別地味というほどでもない、男子とも適度に会話をする化粧っけのない普通の女子。私に指輪を贈ってくれた彼女は、グループの中でも帰る方向が一緒だったこともあり、特に仲が良くて二人だけで遊びに行くこともよくあった。
好きな小説が一緒、好きな映画の系統も一緒、好きな服のブランドは特になく、安くてかわいい服が買えればいいという考え方も一緒の、価値観が合う大人しい子だった。
女子特有のスキンシップの多さに、居心地の良さと安心感、少しのどきどきとした気持ちを持って、そしてそれを友愛だと疑わず、私と彼女は好きだと言い合っていた。
手も繋ぐこともあれば、ハグもする。飲み物のシェアも当たり前にしていた私達はグループ内外からも認められる、いわゆる親友だった。
緊張と混乱でどきどきしていたのだけは、はっきりと覚えている
高校二年生の夏、グループの中で彼氏ができなかった私と彼女は二人で夏祭りに行くことになった。駅前で毎年開催される夏祭りはとにかく人が多くて、二人して少し離れた公園のベンチに腰掛けたときには、目の前に指輪が差し出されていた。
「あげる」
彼女との会話で思い出せるのはこの言葉だけだ。
私達は本当に仲が良かったから、少ない言葉でも何が言いたいかなんとなく察しがついたし、彼女が真剣なのも、夏祭りの雰囲気に似合わない重い空気から容易に理解できた。
あの時私がなんと言って指輪を受け取ったか、受け取った後の彼女の表情や言葉は、情けないことに覚えていない。純粋に嬉しかった。嫌悪感なんてものは無く、緊張と混乱でどきどきしていたのだけは、はっきりと覚えている。
しかし臆病な私は、親友とは違うかもしれない好意の形に、同性を好きになるかもしれない可能性に、異性が好きな女子が多い中で「まわりと違う」かもしれないことに、ただただ怯えた。
そして最低なことに、夏祭りの出来事なんて最初から無かったかのように振る舞い、次第に彼女から離れていったのだ。
卒業する頃には会話をしなくなり、進学先をひとづてに聞き、もう連絡先すら知らない。
臆病な私の身勝手で傷つけたことを、ずっと後悔している
私は、パンセクシャルというセクシャリティに落ち着いている。
今でこそLGBTの言葉が浸透して様々なセクシュアリティの方がメディアに顔を出しているが、当時はまだそこまで浸透していなかったし、私自身も同性が好きといった明確な気持ちがあったわけでもなく、まわりと違うかもしれない、というのがとても怖かったので、自分の内面と彼女から逃げていた。
思えばあれは、自分のセクシャリティについて真剣に考えるきっかけであり、恋だった。
異性を好きにならなければいけない、と思い込んでいた私は長い時間をかけて、やっと自分に素直になれたのだ。自分のセクシャリティについて真剣に考えるきっかけを作ってくれた彼女には感謝をしているし、それと同時に臆病な私の身勝手で傷つけたことをずっと後悔している。
だから、私は彼女に謝りたい。
あなたの気持ちをきちんと聞けば良かった。
離れていかなければ良かった。
周りと比べず、私が勇気を出していれば良かった。
きっと酷く傷つけた。本当にごめんなさい。
八月の夕暮れ、薄い水色の浴衣に白い髪飾りをした彼女を今でも忘れられない。