私はこれまで、「かがみよかがみ」に何度か文章を投稿してきた訳だけれど、前提として、私の文章を読んでくれる人を不快にしたい訳ではない。 だから、自分の力が及ぶ範囲で言葉遣いに気をつけながらスマホをポチポチやっている。
それと同時に。読む側のあなたも当然、私の想いをまるっとお見通しという訳ではない(そりゃそうだ)。だから、それぞれにお持ちの想像力と読解力を働かせて、スマホをスクロールして下さっているのだと思う(ありがとう)。
……だからここだけの話を、腹を割って話すんだけども。ネット上の炎上って、なんで起こるんだろうね……?
社会を変えるほどの文章は、賛否両論と問題提起の側面を持つ
私はこの「私は変わらない、社会を変える」というコピーを掲げているサイトにおいて、私の文章による炎上を避けたいと思っている。え、理由?……なんとなく……。
はたしてこんな呑気な私が、社会を変えることはあるのかしら。炎上する文章のみが、社会を変えるとは思わない。しかし社会を変えるほどの文章は、往々にして賛否両論を生む、問題提起の側面を持っていると思う。
私は今、書く側の椅子に座っている。だから、考えてみたくなった。私は炎上の、何に怯えているのだろう。
私には最近、SNS上で定期的に見かける投稿の中に、気になるものがある。それは、緊急事態宣言下で「テーマパークに行ってきたよ!」と報告する投稿と、それに伴った、炎上。……あなたも見たことがありますか?
SNS上で「テーマパークに行ってきたよ!」という投稿をする事自体は、別に良いと思う(だって営業しているんだから)。
しかし私はその投稿を見て、「よく燃えそうだなぁ」と感じて、「私は行きたいけど行かないし、投稿はしないな」とも、思う。あと、その炎上には参加しない。見るだけ。
行きたいけど、いまはあえて「行かない」を選択をする
私がテーマパークに行きたい理由は、「楽しみたいから」。テーマパーク側は感染対策をしている。ネット上では「テーマパークや周辺施設を守りたい」という理由も見かける。
対して私が今行かない理由は、「心から楽しめないと思うから」。家を出てから、帰宅後の2週間、そしてその後。自分の周囲と社会に与えるかもしれないリスクを想定するから。
私はそうして「行きたい理由」と「行かない理由」を天秤にかけた上で、「行きたいけど行かない」ことにする。抱える事情は人それぞれだし、現状それで良いと、私は思う。
人の決断を公平にジャッジすることは不可能である
ではなぜ私が「行ったとしても、投稿しないな」と思うのか。それは「天秤にかける」という行為を一度経由しているから。
私は何かを発信する前に、世の中に溢れる多様な主義主張を予測している。自分の力が及ぶ範囲、にはなるけれど。
今回の件で私が予測できるのは、脳内で「行きたい理由」が勝つA派と、「行かない理由」が勝つB派がいるだろうということ。そして「不要不急の外出の自粛」という言葉だけでは、どちらの派閥が正しいのかをジャッジすることは、不可能であるということ。
だから私は結果的に、「行ったとしても、投稿はしないな」と思うのだ。だって、A派とB派で、絶対揉めるじゃん……。
ネット上の様々な場所で、今日も轟々と燃え上がる炎。私はそれを遠い場所から、静かに見つめている。意見が対立し、大きく燃え上がった炎上は、燃え尽きた後に何を残すんだろう。
私の個人的な感覚の話になるけれど、私には同じ炎であっても、「キャンプファイヤー」に見える炎上と、「森林火災」に見える炎上がある。
私の一言で・・・ 得体の知れない出火元になりたくない
「テーマパークに行ってきたよ!」の炎上は、私には「キャンプファイヤー」に見えた。その炎を囲むA派の人はB派の存在を、B派の人はA派の存在を、認識しているっぽかったのだ。だからこの炎が燃え尽きた頃、深く傷ついた人は恐らく少ない。残されたのは、問題提起。
だけど人によっては。同じ炎を見て、制御不能の「森林火災」だと感じても、おかしくはないんだよなぁ。炎上って、そこが怖い。だって、C派やD派が居ないって、誰が断定できる?また、A派の意見もグラデーションが存在する訳で。
また、キャンプファイヤーには参加せず、遠くから炎を見る事で思考のきっかけを得たZ派は、どんな行動をとったんだろう。彼らについては存在を証明することすらできない。
とにかく私はその様な、得体の知れない炎の出火元になりたくないのだ。炎上は、悪影響も良い影響も、規模を把握することが出来ない。それが怖い。
小さな灯りを、手渡すように発信する ネットの心得
しかし、最初に述べた通り、社会を変えるほどの文章は、往々にして賛否両論を生むし、その話題が大きい程、影響も把握できなくなる……。良い呟き、良いエッセイって、一体どんなものなんだろう。
私が「かがみよかがみ」で「良いエッセイを読んだなぁ」と感じる時。そのエッセイは読み手に、「考える余地」を残してくれている気がする。自分を押し付けず、相手も否定しない。柔らかな言葉遣いで想いが綴られている。例え自分がB派であっても、A派の言葉がスッと胸に染みる事は、ある。
私も書き手として、今後「炎上するリスクを背負ってでも、伝えたい事」が胸の中から沸き起こることが、あるかもしれない。もしもそんな時が訪れたら、最大限の想像力と文章力を駆使しよう。そして炎を枠内に収め、キャンプファイヤーに留める努力をすることを、今ここに誓う。
ちなみに、今まで私の「かがみよかがみ」に投稿してきた文章はというと、今のところキャンプファイヤーにもならない、小さなキャンドルの炎。そんなつもり。
しかしその実、私も火を振り回している危ないヤツで、他人様の山を焼き払った前科者なのかも……。
と、同時に。誰かが何かを考えるきっかけとなる小さな灯りも、少しは手渡せてきたのかもしれない。そうだといいな。
ネット上で何かを発信するという事は、そういうことだ。そんな怖い話も、たまにはしておかなくちゃね。美しくも刺激的な炎の危険性を、書き手である時も、読み手である時も、決して忘れないように。