私は何かと生き急いでしまうところがあるらしい。
小さい頃は公園で道草をするよりも、早く行こうよと急かすような子どもだった。
思えば、私の母もそういう人間で「今日は朝から洗濯をして10時に開くスーパーに行って買い物をして。」とやらと、眠い目をこすりながら私が起きると、1日のやるべきことをつらつらと話してくるのだった。そんな背中を見て育った訳だから、どことなく何もしない時間が怖く、時間に意味を見出せないとモヤモヤする。

几帳面な私。自分の意思ではどうすることもできない状況に、不安な気持ちが渦巻いた

よく言えば几帳面で計画性がある性格で、だからこそ助かっていることも勿論ある。カレンダーを毎月貼り替えてはやりたいことリストを書いたり、壁に貼るポストカードを季節ごとに入れ替えたり、1週間の献立を考えてやりくりしたり。家に遊びにくる友人や私の暮らしぶりを知る人は、口を揃えて「20代にして主婦さながらのことをこなせているよね。」と言ってくれる。
しかし、性格というのはコインの表裏のように、状況次第で役に立つこともあれば厄介になり得ることもあるものだ。

社会人になって緊急事態宣言が発令され、見通しがつかなくなった今、まさに“厄介になり得る”状況がきた。自分だけの意志ではどうすることもできない不可抗力。海外にも住んでみたいし、結婚もして誰かと一緒に暮らしてみたい。子どもを育てる経験も人生のうちにやってみたいし。そんな野望はあるけれど、中々実現できそうな計画を立てられないじゃない。どうしようかな。。。年齢には逆らえないし。。。1人の時間に、頭の中でそんな不安な気持ちが渦巻いて、まるで霧の中で行き先を探すかのようになることがある。

やりたいことは、感謝。友人の言葉に私の全身から、ぎこちない力がスッと抜けていった

ちょうど半年前頃、久しぶりにとある友人と都内のカフェでお茶をした時のこと。コロナの感染が国内でちょっと出てきた頃くらい。「最近どう?社会人2年目になるよね~あっという間だね。」なんて会話の振りをしてくれたのを覚えている。「やりたいこともいっぱいあるし、叶えたい事もたくさんあるけど、どうしようね。今年は何をがんばろうかな~。」と、これから向かっていく自分への迷いが、気づけば口から出ていた。「どう?何かやりたいこととかあるの?」と私も逆質問をしてみる。「う~ん、確かにやりたいこととかあるけど、まずは“感謝”かな。」 
その言葉を聞いた瞬間、体全身に入っていたぎこちない力がスッと抜けていくのを感じた。先のことばかりを考えすぎていて、今のこの瞬間に感謝していたかしら。どこか生き急ぐ私の背中を摩ってくれるような優しくて温かいその言葉は、私の心を癒してくれたのだった。

年末年始のような自分を振り返る時間を持つと、色々な人がS N Sに「今年は〇〇するぞ」と抱負を書いては自分を鼓舞している姿を目にする。(ちなみに、昨年までは私もやっていた。)
だけど、私はあえて今年は書かないことにした。私の場合、言葉の力が強すぎて私を縛ってしまう。「さあ計画を立てるのよ、やれてないじゃない。どうするの。」と。今の私にとって必要なのは「感謝」できる自分にとって余白の時間やどんな自分も許すことができる優しさだと気づいたから。

「この花綺麗だね」。道端に咲いている花を見て、立ち止まれるような大人になりたい

先日、再び緊急事態宣言が発令されたことをきっかけにその友人とZoomをした。
「最近どう?」と話す彼女を見て昨年の会話が再び蘇ってきた。「今こうやって元気で話しができていることに感謝だな~ありがとう。」と言った私に「元気が出たよ、ありがとうこちらこそ。」と微笑む彼女。いや、貴方の言葉が私を元気にしてくれていたのよ。

私の性格は、大きく変わることはきっとないだろう。自分の性格を厄介に思う時は度々あると思う。
でも、だからこそ自分を少し楽にできる言葉を持てている私は、ちょっと強くなれる。ちょっとやそっとの風で地にしおれたりしない。
もしも、いつか自分の子どもができてお散歩なんかをする時が訪れたら、道端に咲いている花を見て「この花綺麗だね。」なんて立ち止まれる大人になりたいものだ。

雨が降る寒い日の夜だったけれど、まるでちらちら揺れる蝋燭の火のようにじんわりと心に染みる夜になった。