中学生の頃、いじめにあったことがある。

中学1年生。生まれて初めて自分の容姿を笑われた。目が合う度に「鼻が低い」ことを指摘され、そのとき初めて自分が“可愛くない”ことに気が付いた。

中学2年生。鼻に対する指摘はどんどんエスカレートした。国語の教科書に登場した『鼻』でクスクスと笑いが起きる。芥川龍之介を心底恨んだ。誰かに会えば、ひとの鼻をじっと見てしまう。皆スッとしている…。鼻から始まった嫌がらせは、次第に「死ね」という言葉に変わった。登校するのが苦しくなった。登校したくない理由を、私と同じ骨格の母に伝えられるわけもなく、言葉通り、ひとりで抱え込んだ。

中学3年生。どういう訳か、嫌がらせがなくなった。決して心が癒えたわけではなかったが、毎日が楽しかった。と、思ったのも束の間、また再開した。これが繰り返されたとき、私はこの状況・現象に対して初めて疑問を持った。なぜ、「嫌なこと」を言ってくるのだろうか?止んだり始まったりするのはなぜだろうか?

この疑問が「私を変えたひとこと」を引き出すことになる。

原因を聞いてみた、そこで気づけたのは一つでなかった

純粋無垢な中学時代の私だったからこそ、出来たことだろう。勇気を出して、いじめっ子の“長”に直接その理由を尋ねたのである。そんな「いじめられっ子」がいるだろうか。彼も驚いていた。その顔は今でも忘れない。しかし、もっと驚いたのは、彼が仕方なさそうに理由を説明してくれたことだ。

「合唱コンの練習のとき、お前が注意してきて、それが嫌だったから…。」

衝撃のひとことだった。どこの学校でも、どのクラスでもある、あの「ザ・女子vs男子」のやりとりが原因だったのだ。この3年間、苦しみ何度も泣いた、そのきっかけは、こんなシンプルなことにあった。

確かに私は傷ついた。この3年間を私は「いじめ」と捉え、「鼻」のせいにしながらなんとか踏ん張って生きてきた。しかし、ひょっとしたら、先に傷つけていたのは私だったのかもしれない。そんなことに気付かされた瞬間だった。

いじめに悩む人は多くいる。毎日が辛く、命を絶ってしまう人もいる。私も何度も死にたいと思った。そんな現状に対して、世の中は、いじめられっ子を守り、いじめっ子を排除していく。いじめられっ子は可哀そう、いじめっ子は最低だ。そんな単純な構造でしか捉えられていないように感じる。この単純な捉え方がいじめられっ子をさらに苦しめているのではないか。

原因追求力は現状打破だけでなく、私の人生軸をも作った

いじめられっ子に言いたい。自分がいじめられている原因を少しでいいから考えてみてほしい。必ずそこには原因があるはず。もちろん、決していじめを肯定しているわけではない。いじめられている側を非難しているわけでもない。「いじめ」という大きな言葉に隠れているモノ、無意識のうちに隠していた大事なモノを探してほしい。隠れていた理由が分かったとき、「憎しみ」に向いていたベクトルは、もっとシンプルなモノを指し、きっと狭くて暗い世界から抜け出す光となるはず。

ところで、その「理由」を聞いた私は、すぐに彼に「ごめん。」と言った。彼は照れ臭そうに何も言わず去っていったが、次の日から嫌がらせはピタリと止んだ。仲間たちにも説明してくれたのだろう。彼からの「ごめん。」も聞きたいところだが、不器用な彼なりの優しさとして受け取ることにしよう。

この春、私は社会人になる。純粋無垢な中学生は、この経験を糧に大学を卒業し、就職する。「人の行動の要因を考える」ことを仕事に選んだ。例えば、モノを買ってもらうにはどうしたらいいか?を様々な角度から考える。その為に必要な「見えないことを探ろうとする力」と「人やモノに対する好奇心」はまさにこの経験がきっかけとなって大切にするようになった力だ。自分の思い込みや一般論を、少し疑ってみる。その行動こそが私の人生を豊かなものにしてくれた。彼の告白、「合唱コンの練習のとき、お前が注意してきて、それが嫌だったから…。」は永遠に私の中に生き続け、世の中を変える原動力になっていくだろう。