「不思議だね」「ユニークだね」「おもしろいね」
人とかかわる中で私は時折、そんな言葉を受け取ります。
「ありがとう」と返すけれど、心の中は適当な色を放り込んだパレットのようにぐるぐると、なんとも言えない気持ちが渦巻きます。

うれしくはない、だけど、いやでもない。

胸に刺さる言葉。普通でいたいのに…

正直な感情。人は一体私のどこを見て、その言葉に至るのだろう?
ただひたすらにそこが「不思議」でした。思ったように言っただけ、感じるままに行動をしただけなのに。

思えば小さい頃から、私はそんな言葉をかけられることが多くありました。口調がおもしろいと言われ、小学校でたくさん真似されたこと。感想を聞かれて答えれば、サークルの先輩に不思議だねと言われたこと。授業のディスカッションで発言すれば、斜め上の意見だねと苦笑いされたこと。

「不思議だね」の索引を引けば、私の辞書にはたくさんの出来事がヒットします。だけれど、私はいったい自分のどこが「不思議」で「おもしろい」のか、よくわかりませんでした。私はみんなと同じように、「普通」にやったつもりなのに...。

けれど、やはり私は、周りから見るとどうやら「不思議」なようでした。もちろん、友人や知り合いが私に悪口を言ったわけではないのです。それに、会話の中のたかだか数秒の話。
だけど私は、いつの間にか自らの一挙手一投足を、「今の行動は不思議に思われていないだろうか」と、自問自答するようになります。昔の私の中には、不思議とは「普通ではないこと」という意識が強くありました。

なぜみんなと同じようにできないのだろう。
みんなが当たり前にできることが、なぜ難しいのだろう。
そんな「なぜ」で私は人と自分を見比べてばかりいました。あの子のように的を得たことが言いたかったし、あの子みたいに滑らかにしゃべりたかった。
「不思議だね」の言葉は私を傷つける刃でしかありませんでした。

「不思議で何がいけないの?」にハッとした

あるときあまりに悩みすぎて、友人にぽろっと漏らしたことがあります。
「私って不思議なのかな...」
そのとき、友人は驚きながら「不思議に決まってるじゃん」と言ったのです。

え?

「そんなことないよ」の言葉がほしかった私は、拍子抜けしてしまいました。そして友人は続けます。
「不思議で何がいけないの?逆に普通の人なんている?」と。その言葉を聞いたとき、癒された気がしました。私がずっとなりたかった「普通」ってなんだったんだろう?と。ふと、自分の周囲を振り返って思いました、私の周りに「普通」の人なんて誰もいない。それぞれに、それぞれの素敵なでこぼこがある。

普通って何でしょうか。
会話でも「普通こうだよね」などと言ってしまうことがあります。でもそんな「普通」って、大体こうだろうと思っているだけで実体がない。私が追い求めた「普通」も、実際は蜃気楼のようにあやふやなものだったのかも。
そうか、別に「不思議」で良かったんだ。

その時にようやく気がついたのです。人と比べることってあんまり意味のないことでした。いま存在している言葉で私を例えるなら「不思議」、たぶんたったそれだけのことだったのかもしれない。私は私、そこに良いも悪いもない。

その友人の一言から、「不思議だね」に対する私の気持ちはぐっと変わりました。きっとみんなどこかに「不思議」を持っている。それは時に「個性」と言われたり、時に「変わっている」と言われるものかもしれない。けれど、そんな「不思議」たちは、誰かの大切な一人を構成している素敵な一部になっているのでしょう。そう思うようになってから、私は「不思議だね」の言葉がなんだか好きになりました。

大学卒業間近になった今でも、私は時折「不思議だね」と言われます。そんなときは、この友人との会話を思い出すのです。そして、心の底から相手に伝えます、「ありがとう」と。