謝っても如何にもならないこと、もう二度と謝れないこと。
そういうものが世の中にはごまんとある。

幼少期の私は同居の祖父母にべったりだった。
子育てに責任がない、初の同居の、初の女孫ということで祖父母は私のことを猫可愛がりしていた。
当時はまだ祖母も60代。身体に自由が効くからと、三輪車の荷台に、ぐずる私を乗せてよく散歩をしてくれた。
気難しい祖父よりも祖母に懐いていて、夜眠るのもきまって祖母の部屋だった。
私が寝入るまでのちょっとの間、祖母といろいろな話をした。
学校の話、祖父の愚痴、祖母が若い頃の話。それらは私の人格形成の基盤になったと言っても過言ではない。

思春期特有の祖母への反抗

小学校高学年に上がり、私は自分の部屋を手に入れた。丁度中学受験の時期とも重なり家族と過ごすよりも一人でいる時間の方が増えた。
無事に進学するとますます家族と過ごす時間が減った。
中学生になると祖父母の旧時代的な門限や常識、お小言が煩わしくなり、自然と距離を置く様になった。
特に祖母の話題の中心は誰それの愚痴に終始しており、段々とその話に相槌を打つのが億劫になっていった。

部活や塾で帰宅時間がマチマチになり一人で食事をしている私を不憫に思ったのか、祖母はよく私の食事時に部屋から出てきたが、
「ひとりで食べたいんだからあっち行ってよ」
と、今考えれば随分な言い草も、当時は思春期特有の心理で平然と口にして祖母を追い払っていた。
あの時怒って部屋に帰っていた祖母が内心どう思っていたかなんて、今更答え合わせも出来ない。

「私を追い出そうとしている!」豹変してしまった祖母

徐々に距離が開いていった祖母がいったいいつ「そう」なったのかは家族の誰にも分かっていない。

センター試験を直前に控えた冬休みだったと思う。
私は、自室よりも暖房が効く台所で受験勉強をしていた。
台所は祖母の部屋の真横。大した障害物もなく、バラエティー番組の音がよく漏れ聞こえていた。
確かその日は、塾から帰宅して遅い夕飯を食べていた。
食事をしていた私と、それに付き合っていた母の元に、凄い剣幕の祖母が入ってきた。祖母の不機嫌はいつもの事だが、声を荒げるのは珍しい。
話を聞いてみると、私達が祖母の悪口を言った挙句追い出そうとしている、とぼけるな!!!というではないか。
勿論そんな話など全くしていない私と母は?マークが飛ぶだけ。なんとかなだめすかして祖母を自室に帰したが、祖母の部屋からはぶつぶつと愚痴が聞こえていた。
今思えばその頃からだったのだろうか?

2011年の年明け、私は悲鳴で目が覚めた。
まだ日も登らない時間帯だったと思う。
階下からドタドタと揉み合うよな音、祖父の怒鳴り声と母の悲鳴。
明らかに異様な状況。恐怖を感じると人間は動けなくなるらしい。
布団の中で、階下が静かになるまでじっとしていた。
10分だったのか15分だったのか、静かになった一階に恐る恐る降りていった。
想像していた様な凄惨な光景は無く、疲れ切った表情の家族が台所に集っており、その場で病院に行く事が告げられた。

元旦の病院は静まりかえっており、受付以外の電気も消え、廊下の奥の方も薄暗い。
だだっ広い待合いに私達家族だけがポツンと。
足先から冷気が這い上がってきて、不安を増長させる。
祖母と付き添いの母を診察室の前で待つ間、父が事情を話してくれた。

朝食の支度でキッチンに入った母が、床に包丁を持ってうずくまる祖母を発見した。
「みんなが私のことを邪魔者扱いして追い出そうとしている!それなら死んでやる!!」と包丁で自殺を図ろうとした、と。
母は慌てて祖父と父を呼び二人がかりでやっとのことで祖母から包丁を取り上げたという。
その時にはもう、祖母とは意味のある会話は出来ず、何やらぶつぶつと呟いてばかり……。
昨日までの祖母からは考えられない。当時18歳の私にはあまりにも現実離れした話だった。
呆然としていると、目の前の扉がガラガラと開いた。母に付き添われて出てきた祖母はよたよたとしており、まるで歩き方すら忘れてしまった様だった。

いなくなってしまっては、許してもらうこともできない

お医者さんと会話する間、祖母はいつもの祖母で先生からの質問にも淀みなく答えていたという。母も一瞬、朝の奇行はなんだったのかと思ったそうだが、目の前にカードが並べられてから状況が一変した。
りんごや犬、猫など簡単なイラストが描かれたそれらを先生が指差していく。言い淀む必要もない様なそれらを祖母は一問も答えられなかったという。他にも時計の指す時間が読めない。巻うずまきを描くことが出来ないなど。
下された診断は、認知症だった。

テレビの中の認知症は、徐々に周りの物や人がわからなくなっていくとても気の長い病なんだと思っていた。しかし、我が祖母は、坂道を転がる様にハイスピードに様々な物事を忘れていった。
祖母の学級委員長にような生真面目さは失われ、自分を暗殺しようとする何者がいるという妄想に苛まれ四六時中大声で喚きたてた。私達家族のこともすっかりわからなくなってしまった様だった。

幸か不幸か、私は東京の大学に合格しその後直ぐ生家を離れてしまった。
帰省も数年に一度しか出来ず認知症の祖母を抱えた実家がどの様な苦労をしたのかを知らずに済んだ。人間は呆気なくいなくなってしまうという印象を私に残しはしたが。

大学4年生の夏の早朝、祖母が老衰で亡くなったと連絡を受けた。
棺桶に入った祖母の死顔を見た時。
わっと、祖母との思い出がフラッシュバックして、祖母が祖母でいられた最後の最後まで可愛げのない孫だったことを謝りたいと思った。
同時に、もう謝ることも許してもらうこともできないんだなと分かった。