あと一年と少しで三十歳を迎える私。
学生時代のクラスメイトは、公務員、医療従事者、記者、アナウンサー、はたまた売れっ子の女優など、それぞれ異なる世界でキャリアを積んでいる。
対して、ひとつの仕事を究める覚悟を持てぬまま、二十代を過ごしてきた私は、彼らの活躍を耳にすると「私は何のプロなんだろう」と、引け目を感じることが多かった。
なぜなら、私の価値観では「ひとつの物事(仕事)を早く決めて、それを究めること」は、唯一の正解になっていたからだ。
しかし、このことが、私にはとんでもなく難しかった。
「やるからには、もっと上を目指さねば」と思い込んでいた
小学校時代から二十代半ばまでの私は、習い事にしろ勉強にしろ、純粋な楽しさよりも、周囲からの評価欲しさによって「やるからには、もっと上を目指さねば」と思い込んでは、勝手に人と比べ、勝手に落ち込み、勝手に疲れて、勝手に諦めることが多かった。
中には、十年以上続いたものもある。英語の勉強だ。幼少期にディズニーアニメに惹かれ、英語に興味を持った私は、中学から本格的に学び始め、高校と大学は英語の専科へ進み、交換留学を経験し、教員免許も取得した。
そして、その過程で「私よりずっと英語が好き」で、「私よりずっと頑張っている」「私よりずっと優秀な」人たちと、数多く出会った。
小さなこの県内ですら、これだけいるのだから、国内なら何万人?何十万人?
常に上を目指さねばいけなかった私には、英語を使うキャリアは、あまりにも果てしなく、辛いものになった。
気づけば英語を目にするのさえ苦痛になっていき、教職に進む覚悟は持てなかった。
「ひとつの物事(仕事)を究めていない」ことへの劣等感
また、二十代の間に、結婚と出産という大きなライフイベントを迎えたり、その後まもなく自律神経の病気に罹ったりした私は「体調に無理がなく、かつ家庭のことも無理なくできること」が重要課題となり、その条件に合う事務のパートや、家庭教師やライターのアルバイトを、夫の扶養範囲内で行っていた。
その間、高校の友人と、ハンドメイド雑貨ブランドを立ち上げもした。細々とだが現在も続いており、私は商品の広告文を作ったり、お客様とのやり取りといった「ことば」に関する部分を担当している。
あるイベント出店では、日本語と英語での呼び込みで、全ての商品を売り上げたこともあった。ことばの力で商品の魅力を伝える楽しさや、人の役に立っている喜びを大いに感じた瞬間だった。
しかし、コンスタントにお金を稼ぐには、厳しかった。
本業として、常に売り上げにシビアになろうとすると、友人との穏やかな関係性が変わってしまう不安があった。また、友人にも健康面で事情があり、私たちは、この仕事では稼ぎを目的とせず、経験を積むものとして捉えることにした。
そんな二十代を過ごしてきた私は、家庭を持ったことで得た喜びや幸せはこの上ないが、私個人を顧みると「ひとつの物事(仕事)を究めていない」「扶養内でしか働けていない」劣等感を、解消することはできなかった。
しかし、ここ三年ほどで、状況が少しずつ変わってきた。まず最初に、この劣等感の一番の根っこが見えてきたのだ。それは、父との関係だった。
一見、仕事とは無関係に見えるが、病気をきっかけに、自己肯定感に関連する書籍を読んだり、心療内科やカウンセリングに通い、自分を俯瞰する機会が増えたことで、常に人からの評価に飢えた私の生き方は、父との関係に由来していることに気づいた。
私の容姿や性格、成績や能力を、たびたび笑って貶める父から、私はずっと褒められたく、認められたかったのだ。
そうすると、プロになるにはもう無理だと感じていた、英語も文章作りも「その時々で、ベストは尽くしてきたかも」「一番になれなかったとしても、仕事はできるのかも」と思えるようになり始めたと同時に、これまで抑圧していた思いを、父に伝える勇気も湧いてきた。
「お父さん。あなたが私の容姿や性格を馬鹿にしては、家族や親戚の前でネタにして笑っていたこと、ずっと辛かったし、今でもその影響は残っているんだけど」
「でも悪気はなかった」
「でも、って。いつもそうだよね。言い訳。自己保身。結局こっちの思いを踏みにじるアンタのそういうとこ、大嫌いだわ」
はじめは応酬が続いた。父から返ってくる言葉や態度から、過去の古傷がシクシクと痛む瞬間もあった。
また、そんな中でも、父との楽しかった思い出が頭をよぎり、悪気がなかった父の言葉に勝手に傷つき、今さら蒸し返す私が間違っているのはないか、と不安になることもあった。
何ひとつ究められないと思っていた二十代に、無駄なことはなかった
しかし、三十を前にした私は、年齢的な区切りの良さからか、はたまた我慢の限界を迎えたからか、今この瞬間こそ、二十代までの人生と向き合う最大のチャンスに思えて、そこに多大なる影響を与えた父と、納得いくまでぶつかってみることにした。
やがて父は、心からの謝罪の意を伝えてくれた。そして徐々に、この親子関係を再構築していけそうな希望が、互いの間に見え始めた。
たまたまその後、父と弟が事業を立ち上げることになり、私は広報の仕事を請け負うことになった。そこでは、英文の翻訳や、宣伝文の作成、営業メールや電話、データ作成といった事務作業など、私がこれまで別の場所で経験したものを、フルに活用している。
もちろん、今の仕事も、全く自信はない。それぞれの業務のスペシャリストから見たら、怒られるのではと怖くなる時もある。
しかし、これまでの私と違うのは、たとえ怖くなっても、自分の生き方までダメじゃないんだから、いくらでも食らいついてみようと思えることだ。そうすると、学ぶことが楽しくなってきた。
今、私が働く理由は、私は私の役割を通して、事業に関わる人々とお客様、そして私の家族と、私自身の人生を豊かにしたいからだ。
何ひとつ究められないと思っていた二十代の終盤に、何ひとつ無駄なことはなかったと、自分で自分を認められたことで、ようやく私は「わたしの道」を、のっしのっしと歩き始めた。