私を変えたひとことは「適当に、ね」である。この短い言葉の中に、彼の優しさがすべて詰め込まれていた。

 高校で、身の丈にあわない進学校に進んでしまい、行き詰った。初めての挫折を味わった。勉強が難しすぎてついていけない。今日できないことが明日にはうやむやになり、それでも授業は待ってくれない。予習が復習になり、どんどん宿題として積みあがっていった。そんなアップアップの毎日だったから、部活にも上手く向き合うことができなくて、なんとなく打ち込めるものを失いぼんやりとした毎日をただ生きていた。

 それでも、高校生活は友達に恵まれ、学校に行くこと自体は楽しかった。楽しかったが、自分の苦しさを吐露できる場はなかった。正直にすべてを話す勇気がない。周りの皆は自分より“出来る”人たちで、そんな人たちが、自分の“わからない”という感覚を理解できるはずがないと決め込んでいた。

不安を打ち明けたとき、無口な彼がくれた一言

 唯一、弱みを見せられたのは、彼氏だった。人生で初めてできた彼氏は、とても穏やかで無口な人だった。帰り道はほとんど私が一人で話し、彼は笑ったり頷いたり、何でも聞いてくれた。だから、何でも話せた。時々、ユーモアに富んだ返しをしてきて、それがまた気が利いていて好きだった。

 あるとき、いつものようにテスト前、不安を打ち明けた。また点数がとれなかったらどうしよう。まだここまでしか勉強できていない。全然足りない、でもわからない。できる気がしない、でもやらなければいけない。そんなとりとめのない不安をぐちぐちとつぶやいていた。彼はただ、そうだよね、難しいよねと、優しく聞いてくれ、いつもの場所で別れた。

 別れ際に彼は、じゃあまたね、と言った後に、テスト…と言って少し考えてこう続けた。「適当に、ね」。そしてはにかんだように笑って去っていった。心が震えた。吹いてもいない風に吹かれた気分だった。

こんな思いやりを持った言葉を私はこれまで誰かにかけてあげられたか

 いつぞや彼に「『適当の適は適切の適だ』と小学校の先生に教わって、それ以来適当という言葉のニュアンスが好きだ」という話をしていたのを思い出した。そして、私が「がんばって」といわれるとプレッシャーを感じるので苦手だと、これまたずっと前に彼に言っていたのを思い出した。どちらも彼は覚えていて、彼なりの「がんばって」の気持ちがその言葉にのせられていたのだった。それが理解できて、私は心が震えた。そしてとてもあったかい人だと思った。こんな思いやりを持った言葉のかけ方を、私はこれまで誰か一人にでもすることができていただろうかと考えた。

彼のような、言葉選びのできる人間に、私は今なれているだろうか

 あれから、彼とは別れてしまってそれきりだが、今でも彼のあの言葉を思い出すとき、自分の日々の言葉のかけ方を反省する。人によって、言葉にはいろんな想いがあって、受け手も伝え手もそれを十二分に理解して話をしないと、どこかで必ずすれ違いが起こってしまう。言葉とはそういう、繊細で脆くて、だからこそ美しいものだと思う。彼のような、言葉選びのできる人間に、私は今なれているだろうか。今日もまたそう思いながら、沢山の人の中で生きるのである。