担任の突拍子もない言葉に混乱した
「勉強なんて、しなくていいんですよ」
日本史の授業中、突然先生が言った。
寝ている人が多いから、気を引かせるために、突拍子もないことを言い出したのだなと思った。
正直、何を言っているのか初めはさっぱり分からなかった。私は今、勉強をしに、いや、させられに高校に来ていて、日本史の授業を受けている。
受験だ、いい成績をとるべきだ、と言う先生たちのもと、そして勉強をしなければならないと思わせられるような環境の中で。
しかし、当時の私の担任は、「しなくていい」と言う。どういうことなのだろう。先生だって、自分の受け持つ生徒たちに勉強をさせて、いい成績をとっていい大学に入らせるために、学校に来て、授業をしているのではないのか?
勉強をしなくてはいけないという呪縛から解放された
「勉強は、したい人だけがしたらいい。」
頭の中が整理出来ず、ノートを書く手が完全に停止してしまった私の方を見て、先生はまた言った。
「勉強をしなくたって、この先楽しく生きていけるし、どんなことでもできる。勉強が全てではない。自分の好きなように生きなさい」
その言葉を聞いた瞬間、私の中の、何かがふっと、軽くなったような気がして、居てもたってもいられない気持ちになった。
心の中にずっと潜んでいた、何をしていても消える事がなかった、ドロドロとした、私を生きづらくさせてきたアイツ。
でもそれは、勉強というものからの呪縛が解けたことで、勉強する理由を失ってしまったということでもある。
私は今まで「やらなければいけない」という気持ちになっていた。それはきっと、自分ではなくて、周りのため。自分の価値は、受験に合格するかどうかで決まってしまうという他人軸の考え方。それは本当に、自分の人生を生きていることになるのだろうか?
それからの受験勉強は、なんだかとても気持ちが楽になって、不安はもちろんあったけれど、私の中にずっと住み着いていた、あの邪魔者は、もう消えていた。なるようになる。結局、受験というものは、自分がどれだけ自分と戦えたのか、その結果が合否という形で可視化できるものに過ぎないのではないか。
「不合格」という結果でも、自分を認めてあげられる人生を
第一志望校に落ちた。それは、勉強をしなかった過去の私を、不合格という通知を受け取った未来の私が認めてあげなければならないということ。不思議と悔しいという気持ちが湧いてこなかったのは、自分の好きなように生きた結果であったからだと私自身が納得できたから。そう思うようにしている。
自分がいて、他人がいる。もうその時点で格差というものは生まれてしまう。
総資産や学歴、育ってきた境遇や容姿。常に比較対象があるから、私たちはあたかも自分が「普通」であるかのように振る舞うことができる。
しかし、興味の矢印を外側から内側に向ける勇気も必要である。何故ならば、今生きているこの瞬間は私だけの人生なのだから。絶対に誰も邪魔をしてはいけない。
勉強するのも人生。しないのもまた、人生。たくさんの生き方がある中の、一つの選択肢に過ぎない。
私はこれからも自分のために、自分のための勉強をしていこう。