「なるはや」。私が広告系の会社に入社し、OJTで実務を担当していく中で、それまで聞きなれなかった横文字の言葉たちの中でも違和感を感じた言葉のひとつだ。

無理をさせる以上、社内であっても誠意を見せるべきだと考えている

用例
・入稿希望期日:なるはや(特に補足もフォローもなく、ただこう書かれていることが多い)

ふむ。なるはや。なるべく早く。
言う方は、四文字で伝えられて簡潔で明快なことば。
とにかく忙殺されている営業さんには、うってつけの文言なのだろう。
もちろん、対応スピードによって会社ごと評価されたり
取引が動くことなど当たり前のこと。

でも、言われる方は、「なるはや」の4文字から
・一言詫び入れられないのかなあ
・せめて急ぎでも○営業日まではと握ってくるとかそれすら調整できなかったのかな~
・仕方ないよね~クライアントは大事にしたいよね~扱い増やしたいのは私も同じだよ~
・でも手を動かす人間のことを下請け要員にとしか見てないのも透けてわかるな~
・こっちがもし「なるはやでやりましたw」と言って1年くらいかけて対応したらあなたがどんな顔するのか見てみたいな~と、思ったり思わなかったりしながら「なるはや」納期に間に合わせるために急ぎ作業をする。
まあ、急ぎ作業をするからナメられるのかもしれないが…。

ちなみに、上から降りてきたものを私が実作業してくださる方々に指示をする時、かつ上から「なるはや」の4文字しか降りてきていないときは、

「いつも迅速にご対応くださり本当にありがとうございます!
 先日の〇〇のご対応も急ぎご対応くださり本当に助かりました。
 ただ、今回の納期も調整打診してみたのですが後ろ倒しが難しい温度感でして…ご協力いただけないでしょうか?
 私が対応・チェックできる部分は巻き取りますので、不明点含めいつでも仰ってください」

くらいまで修正して依頼している。
無理をさせる以上、社内であっても誠意を見せるべきだと考えている。
無駄だ、理不尽にはある程度慣れさせないとと思われる方もいるかもしれない。
それでも、とにかく作業をお願いする方に上流工程の無茶に触れさせなくない、迷惑もかけたくない、私の代くらいまではギリギリ理不尽に耐える足腰があっても下の世代にこれきっかけでこの仕事を嫌いになってほしくない、という思いが根底にあることで、この鬼長依頼文面が爆誕しているのだ。
過保護かもしれないし、自己満足かもしれないが、せめてもの贖罪でやっている。
(急げって言われてるのにそんなまわりくどいことをしてるからダメなんだよということはわかっていますので指摘不要で…)

みんな自分と似た考えだと無意識に思っていた。捉え方の違いに驚き

…という日記を書いた後他部署の先輩と「なるはや」についてたまたま会話した。
私が、「とにかくなるはやという言葉が嫌い。この部で言う人は大分減ったが、たまに来ると最低限『期限:恐れ入りますがなるべく早めでお願いいたします』で言えないのか?
なるはやってめちゃくちゃ失礼」という意図の愚痴をこぼしたところ、先輩は、「なるはやは特に抵抗なく使うし、プレッシャーをかける意味というよりは『可能な範囲であなたが対応できるタイミングであれば明確に私から期日は切りませんよ』という、相手に楽に捉えて欲しいというような意図で使っている」とのことだった。

素直にビビった。
同一でないにしろ、近しい立場の人はきっとみんな自分と似た考えを持っているはずだと
無意識のうちに思っており、この四文字への捉え方の違いに心から驚いた。

私も先輩も、出発点は相手への気遣いということは同じだったので意見の帰結は一旦理解はできたものの、いざ自分が同じ意図で使えるか、または自分が相手や先輩の意図でなるはやと指示されたときに冷静に意図を汲み取ることができるのかというと、未だに自信はない。
つまり、完全に「わかることができるもの」として処理することができない。

基本的にわかりあえないが、共に在りつづけるためにコミュニケートを


いくら同じ属性で働いていても、性別・年齢・価値観・趣味・オタクジャンルetc…その諸々が重なり合って、同じ言葉を使っても、わかりあえないことは往々にしてある。

人とわかりあいたい。でも、人と人がわかり合うことって多分できなさそう。
わかったつもりにはきっとなれる。でも、「理解」に到達することは難しいのではなかろうか。
なぜなら、物事や感情を全て齟齬なく正確に伝わるよう言語化し、不完全な発信をすべて元の意図で捉えられる人はいないから。

答えを探してさまよい、たどり着いた言葉があった。

”そもそも、コミュニケーションとは、わかりあうためのものではなく、わかりえなさを互いに受け止め、それでもなお共に在ることを受け容れるための技法である。
「完全な翻訳」が不可能であるのとおなじように、わたしたちは互いを完全にわかりあうことなどできない。
それでも、わかりあえなさをつなぐことによって、その結び目から新たな意味と価値が湧き出て来る。”
(ドミニク・チェン『未来をつくる言葉 わかりあえなさをつなぐために』)

なるはやの依頼を受けたとき。
自粛で飲み会ないとストレス溜まってどうしようもなくなるタイプの人。
女がいると会議が長くなる。
全部全部、私にはわからなすぎるのだ。真意が。

人と人とのスタート地点を、「わかり合いたい」ではなく、「所詮お互いわかり得ないものだ」というハードルまで引き下げて、背景・歴史を、尊厳を、言葉をそれぞれの使用言語や思考システムで翻訳できるところまで自分に取り込んだうえで淡々と思考や現業を進めていく。

例外として、踏みつけられ、舐められたことに怒るべきときは必ず存在する。
そことの折り合いは、まだつけられていない。これから考えていくところだ。

今日の自分をなんとか生き繋げさせるために、自分は自分、あなたはあなた。
基本的にわかりあえないが、共に在りつづけるためにコミュニケートする。
という線引きを、もうほんの少しだけ持っておきたい。
そんなことを教えてくれた「なるはや」の四文字だった。